16日、午後2時前に大阪でツアーメンバーと分かれて、榛原の墨坂神社にいく。同行者は二人。http://www.genbu.net/data/yamato/sumisaka_title.htm
その途中、近鉄線への乗り換えに好都合だとして、元テレビプロデューサー氏に案内され、鶴橋にある半島所縁の神社に行くが、どうもこの空気はなじめない。
あまりの「ほこり」っぽさ。清浄さが感じられない。
そこでは、キムチを誇らしげに掲げる店が軒を連ね、オムニのやさしさはわかるのだが、街に透明感がないのだ。
近鉄榛原に着くと、1992年に拙著『新東宝主義』を出したときに、わざわざ東京まで会いに来てくれた宮原氏が待っていた。そして墨坂神社を参拝する。
この神社は実は、長野県の須坂に勧請されている。
この地が、熊野からきた神武(実際は崇神)と、ニギハヤヒの軍勢が戦った地。ここへの道筋を手引きしたのがヤタカラス。三足烏。この正体は高句麗の勢力。
ウチノ先祖が天皇を創った、という、その人間のことだ。
そして、17日朝、桜井市小夫にある天神社に。ここが泊瀬宮。
天武が伊勢の伊雑宮に「太一」を祀る前に、娘の大来皇女を派遣し、禊させた地。
ここで、私にとって、生涯の課題だったあることの、大発見があった。
ここには、ご神木に樹齢1500年のケヤキの樹がある。ケヤキ「欅」をこの神社では、あえて「槻」と書いている。この意味は、何か?
なぞときは、安康・雄略時代に、列島は、大変な殺戮の時代であったこと。
列島を武力統一したのがワカタケル(雄略)。その子が、シラカ(清寧)。
シラカは、ホムダワケ(応神)が築いた王朝は、やはり、オオサザキ(仁徳)の子孫が継ぐべきなのだ、と大いに悩んでいたところ、そこに、身を隠していたイザホワケ(履中)の孫にあたる兄弟の弟が自ら名乗りを上げた。
シラカは大感激する。そして、大王位を譲った。これが、顕宗。
そして、祈念に、ケヤキを植樹した。
これが、日本書紀に書かれている。
そのケヤキが実際にそこに在った。しかも、まだ、旺盛な生命力を湛えている。山全体を覆うくらいの生命力だ。
感激なんてものじゃない。泣くしかない。
そのあとに、天と地の双方から・・・・。 フラフラになりながら、何とか、歌にした。
ホムダワケ ヌナトの光 受け継いで コーシャを知りて ケヤキに込める
このあとはもう体が浮遊状態。15日に名古屋についたときと、見た目は同じだったかもしれない。
午後6時に長野駅に着き、駅ビルMIDORI一階で、子供たちのお土産に「焼き鳥」を買った。
自宅にもどって、留守を守っていた子供二人を連れて、晩御飯に草原ラーメンにいく。半分しか食べれない。残りは小五の次男坊が食べた。
そして、パソコンを開く。
なるほど、交代したんだ。
それなら、イギリスにいる、金融ワンワールドの「三本指さん」と会う日も近づいたことになる。
でも、悲しい事件も。
中国でもっとも稼ぐ女優、ファン・ビンビンが今、行方不明とか?
彼女はチンタオ(青島)生まれだったなぁ~。最初は、ほんとうに綺麗だったけど、『則天武后』での姿は、ちょっと悲しかったね。