すこし、古いですが、11月11日の産経新聞は、
次のように、伝えます。
「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡」
この記事の中では、多くの考古学者がそう言い出したと。
今、見直しても、あきれてものが言えない。
奈良に、弥生時代から続く遺跡が多いのは、当たり前で、
これを何で、邪馬台国とするのか?
これは、古代出雲です。 日本の学者の視野狭窄が、極まっています。
日本古代史、なかでも、現代まで続く、出雲との関係、とくに、<神武東征>や
<国譲り>の史実、 「神無月」、皇室の中の「ニギハヤヒのお弔い」など、
こうした、文化的な習慣について、どう説明するのでしょうか。
日本海ルート、特に、信濃のことが視野に入っていない以上、
どうしようもないのですが。
柳沢遺跡のあった場所は、 信濃(シナノ)国、倭(ヤマト)村と呼ばれていました。
奈良のヤマトに来る前に、九州と信濃に、ヤマトはありました。
急ぎます。
以下は、11月11日の記事。 あまり、載せたくないけど。
まあ、「垣間見せてくれます」が。
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邪馬台国畿内説の“本命”である奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡での大型建物跡の
発見は、 江戸時代中期の儒学者、新井白石が大和説を提唱して以来続く、邪馬台国論争
にほのかなゴールをかいま見せる成果となった。
魏志倭人伝の解釈や発掘調査、科学力を駆使した研究の積み重ねによって、古代史最大の
謎が解き明かされつつある。
「だんだん決着に近づいてきた」。
畿内説を提唱する白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長(考古学)は強調する。
邪馬台国論争の歴史は古く、新井白石が大和説ののちに九州説を提唱し、国学者の本居宣長
(もとおり・のりなが)も九州説を打ち出すなど本格化。現在は、考古学的なアプローチが中心だ。
纒向遺跡ではこの20年間、桜井市教委を中心に箸墓古墳(全長280メートル)など最古級の
前方後円墳の調査を精力的に進めてきた。かつては4世紀の築造といわれたが、木の年輪幅
の違いを利用して伐採年代を割り出す年輪年代測定法の成果などによって、3世紀の邪馬台国
時代にさかのぼる可能性が高まった。
所在地論争の最大の決め手は、卑弥呼が中国・魏から授かった金印の出土とされるが、
丹念な調査が邪馬台国の実像をあぶり出しつつある。
白石館長は「長年の研究の蓄積によって『九州説は無理だろう』という考古学研究者が大半を
占めるようになった」と指摘し、
「全容解明へ文化庁や県が調査に乗り出すなど態勢づくりが必要だ」と話した。
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PS: 金印とは、「親魏倭王」 で、
これが、物部家に伝わっているとの、指摘もあります。
これから、本番が始まります。