まず、ここをご覧ください。http://blog.livedoor.jp/pegasus2011/archives/9557173.html#comments
「神戸だいすき」の加藤さん、生きていてくれてよかった。
アヘン戦争で負けた「だらしない支那人にかわって、東亜に光を出す」
という気概の裏に何があったのか?「日本こそ中華だ」という出発は
山鹿素行が赤穂で書いた「中朝事実」からだった。書かせたのは光圀。
この意識は大陸に清の康熙帝が誕生し満州族ながら中華の教養を完璧に
学びだすと、亡命した明の末裔たちの嫉妬と裏合わせになった。
18世後半、列島から流出した金を運んで羅芳公司ができ、独立戦争、
フランス革命を促し、イギリスが清に対しアヘン販売を始めると、清の
凋落が始まった。この事情を見て19世紀初、アジアで西欧に対するのは
「中華である日本」だとの意識で佐藤深淵が「宇内混同秘策」を書いて
海外進出を策定する。元禄期に光圀が始めた「大日本史」の編纂は明治
になっても続き、日露戦争勝利で完結した。
このあと朝鮮併合、満州事変。リットン報告の否定後「満蒙は生命線」
となり、日米開戦前の1940年国家総動員令で国民全体が戦闘ロボット
になってしまった。裏には戦争屋とイギリスの「金融ワンワールド」。
1931年満州事変後、溥儀を担ぎだして満州国を建国。226事件後、軍部
が大本営を無視して拡大。1937年盧溝橋以後、皇軍兵士は現地で「日本
鬼子、東洋鬼」と呼ばれる、血の通わないロボット人間になってしま
った。そのとき、半島生まれで「皇民」なった人間をどう扱い、何を
させたのか? 事実は如何だったか?
いずれも個人の尊厳よりも、神聖不可侵のアラヒトカミ天皇を語る
統治体の命令(指令)を絶対とする、心の「網」の作用でした。
加藤さんの解説に補足しますが、
不比等の存在を発見した先達は京都学派の3人です。
梅原猛 上村春平 上田正昭
そこに天皇と道教(五斗米道)の関係を調べた、福永光司
ユーラシア史観は、最初は謝世輝。そして、岡田英弘。
天皇外来説を系統的に纏めたのは宮内庁書陵部にいた小林恵子。
彼女を世に出したのが、神武不在説の 三笠宮崇仁でした。
ただいずれも縄文からの連続性と列島での王権の発生について解明
しておらず、特に3世紀後半に一斉に列島から銅鐸(最大のものが
滋賀県野洲から出土)が消えた事実と、「国産み」「国譲り」伝承、
及び、ニギハヤヒの存在と位置づけが、混乱したままでした。
私が2004年11月に金井敏伯氏と出会ってそれをやれと言われました。
この時点で、多くの日本古代史研究者は、
魏志倭人伝(正確には東夷伝倭人条)の卑弥呼の記載について、
いずれも、原文「景初2年」を、あえて「景初3年」とする理解で、
弥生から古墳時代への変遷事実史を探る姿勢のままでした。
日本各地に残る文化習慣と、中国大陸(経由)の歴史事実が如何に深く、
複雑かつ多岐にわたって関係しているかは、道教の影響から見つけ
ることができます。参考本『日本史を彩る道教』
http://honnomori.jpn.org/syomei/5-na/nihon-doukyo-1.html
古事記・日本書紀をまとめるにあたって、不比等は中国の道家の系譜も
見ていたでしょう。特に大宝律令ができるころには「玄学」が盛んであり、
702年粟田真人と同船した人物が弁正です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/弁正
李隆基(後の玄宗)の囲碁相手になったほど信頼と尊敬を得ています。
弁正は武則天が創った「周」が「唐」に戻る712年の政変を現地で実見し、
この年、列島では古事記の記載が、ウマヤド誕生の段階で終りになった。
弁正は唐で結婚し息子が二人(秦朝慶と秦朝元)いて次男の朝元は717年
遣唐使に加わった不比等三男,馬養(宇合)と共に日本に戻っている。
なお私が中国史を理解するとき参考になったのは安能務氏の歴史観です。
日本統治時代の香港で学び、秦成立から民国まで「中華」を法家の立場
で話す。特に民国時代の蒋介石の背景や「故宮宝物」を知るのに以下は
お勧め。『八股(パクー)と馬虎(マフー)―中華思想の精髄』 (講談社文庫)