稲刈りが終わって、露天風呂に入り、ソラテラスに行って、今日は、須坂の墨坂神社。

こんにちは。
1)台風一過でしたが、北信濃は、昨日も今日も快晴でした。

昨日は、飯山の戸狩での「マイ田んぼ」で稲刈り。
とにかく、気持がいい。 そのあとはみんなで、小さな収穫祭。
一汗流そうとなって、高社山の東南の麓にある、露天風呂(遠見の湯)に入ったあとは、
最近、雲海を見れる眺望台として、人気の名所になっている、竜王のソラテラスに行きました。
1770mの山頂は強風で長く居られませんでしたが、北信五岳に、茜色とオレンジ、ピンクの層ができて、楽しめた。
海外からの観光客も多く、私の少年期とは、隔世の感です。

で、本日は早朝8時前に中野市の直売所を二か所を回った後は、小布施に行きましたが、
小布施堂のモンブランを目当てに、まだ開店の3時間以上前だというのに長蛇の列。一体、なんなのだ。
茅葺屋根の朝食屋「珈茅」も満席一杯なので、新規開拓とばかり隣の須坂にいくことになりました。実は、ここが私の本貫の地です。
朝食屋がないので、老舗の和菓子屋「盛進堂」で栗菓子を買って、桜の名所、臥竜公園のベンチで朝食。

2)須坂の墨坂神社と、昨年の陛下の高麗神社「行幸」

今回、「マイ田んぼ」稲刈りに参加したメンバーからある課題が出されていました。

長野県の須坂に、二か所ある「墨坂神社」のその意味を知りたいということだった。
社伝では、この神社は673年の天武即位の時に、奈良の墨坂神社が勧請され、
さらに、781年、桓武即位の年に大幅に所領が封じられたとされていますが、

なぜ、須坂に、墨坂神社が二ケ所もあるのか?   この謎が、現地に行って解けました。

ヒントは、須坂には、臥竜公園の南に東から西に流れる百々川があり、それに沿って、巨大な積石塚古墳の八丁鎧塚古墳があること。これは明らかに5世紀の騎馬系部族、そして製鉄部族の古墳で、獅子の面をもつバックルが出土している。

北信濃は高句麗系の部族が多く定着したところですが、応神(ホンダワケ)即位に合わせ、高句麗や蒙古高原を越えて、遠く天山の向こうからも多くの部族が来ており、その中に鍛造鉄の技術を持つ部族もいた。このラインで、実は、仏教も入っています。

ここで、素敵な歌の紹介です。

中大兄(天智)が大津に都を建設し、即位した668年の夏、大海人皇子(後の天武)が蒲生の猟場に現れ、かつての妻で、今は天智の后となっている額田王と歌を詠み交わした「相聞歌」があります。

茜草指   武良前野逝  標野行   野守者不見哉  君之袖布流
あかねさす  紫野ゆき   しめのゆき  野守は見ずや   君が袖振る。

紫草能   尓保敝類妹乎  尓苦久有者  人嬬故尓  吾戀目八方
むらさきの  にほへるいもを  憎くあらば  人妻ゆえに  我れ恋ひめやも

この「相聞歌」は、白昼堂々交わされた、大人たちの恋の戯れ歌と解説されるのですが、このとき、高句麗は、新羅の文武王金法敏と、唐の将軍、李セキに攻められ、滅亡する最後の場面でした。
 
 「高句麗との関係を忘れるな。」

これが、昨年9月20日に、来年退位される今上陛下が埼玉の高麗神社を参拝した意味でした。

日本で初めて、伊勢(伊雑宮)で「太一」を祀った天武(大海人)は、高句麗、そして、北信濃と関係の強い人物でした。

大海人は、額田王とこの相聞歌を交わしたあと、実は北信濃(高社山南麓に広がる「笠原の牧」)で馬の畜牧を急ぎ、
671年に大津京にいき、倭の大王になっている天智の前に現れた時にはすでに多くの馬が成長していた。
 大海人が猛抗議したのは、中大兄の倭国(大津京)が完全に唐(高宗)の冊封下になっていたことです。

3)北信濃と宇治木幡と吉野を結ぶもの。

このとき、大海人は槍を突き立てて抗議し、「吉野に出家する」と言ったと日本書紀は書きますが、このとき、宇治の木幡まで、蘇我果安、蘇我赤兄、中臣金が送っています。

三人は大海人の抗議の意味を知り、監視しながら、実は、大海人を護衛していたのでしょう。
大海人は木幡に着くと、643年に「天神が着いた」木幡神社で、大津京の勢力との「戦勝を祈願」し、柳の小枝を挿し木しています(柳大臣の伝承)。

古代(古墳時代~飛鳥時代~奈良時代)には、馬を多く持つことは戦闘の場面で圧倒的に有利に立つことでしたが、このとき、信濃に馬が育っていた。


聖徳太子「ウマヤド」に当たる人物が、622年に日本列島から消えた時、その無事を祈り続けたのが蘇我馬子の娘の刀自古郎女で、その場所が現在の善光寺です。これは大勧進ではなく、大本願の方です。
 刀自古郎女は高句麗系の巫女たちをこの地に集めていました。

蘇我氏は、仁徳の息子の履中の時代に大臣になり(蘇我満智)、継体が即位した後の500年代には糸魚川のヒスイを独占し、その加工や運用の権利を握っていた。
このとき蘇我稲目の娘の堅塩媛(馬子の姉)は北信濃に基盤をもち、それを姪である刀自古郎女が引き継いでいたようです。
刀自古郎女が「ウマヤド」との間に儲けたのが山背大兄です。

その山背大兄が643年11月に死ぬと、当時の大王(オオキミ)だった宝皇女(皇極)は勅命で、すぐに善光寺の大本願に伽藍を勅命で建てさせた。これが『善光寺縁起』です。

672年元旦に天武が吉野を出立し、徐々に勢力を集め、壬申の乱に勝利し、翌年、即位するとき、

自分の本拠地ともいえる北信濃の地に、実は、神武(実際は崇神)のときのニギハヤヒ勢力との激戦地となった奈良榛原の墨坂神社を勧請した。

それが、今の須坂市中心部にある、墨坂神社「芝宮」です。

そのあと桓武天皇即位の時に墨坂神社は所領を増やすことになるのですが、これは旧高句麗系の人間に対する、桓武朝廷からの懐柔策です。こちらが、「八幡地区」の墨坂神社の方でしょう。
こちらの神社の中に、大変強いスピリチュアル・パワーが出ている一区画を、今回のメンバーが見つけました。

 日本列島で、3世紀の崇神から、7世紀の天武、そして、8世紀終わりの桓武まで、この北信濃(高井郡)で何が起きたのか? 高句麗・馬・鍛造鉄・仏教をキーワードにいろいろ見えてきました。
 
 江戸時代、須坂の地はずっと堀氏の所領でした。堀氏は「芝宮」を保護してきました。その最後の殿様が、徳川慶喜に直言し、自害した堀直虎です。
この幕末の堀氏に関するシンポジウムが11月4日、須坂の笠鉾会館であるというので楽しみです。

今回、再び飯山駅に戻る途中、高社山の西南をクルマで通る時、調度、柳沢遺跡の上に、低く長く、綺麗に虹が架かっていました。
祝福されたのかもしれません。

明日は、舞鶴から懐かしい客が来ます。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。