昨日、両親を連れて、長野市まで映画「テルマエ・ロマエ」を見に行きました。十分に高齢の二人でしたが、最後までに眠ることなく、2時間しっかりとみていたので、それなりに楽しめたようです。主役の阿部寛さんが、47歳にも関わらず、よく鍛えこんだ体で熱演しており、今後は、海外からも出演オファーが来るのではないか、と期待します。
新井史観では、文武までの歴代天皇は、皆、渡来人です。それも、かなり、西側の人間です。
というよりも、厳密に言えば、皇祖神アマテラスが生まれ、大宝律令が出来、記紀が書かれるまでは、「日本人」は存在しなかった。
文字で書かれた言葉よりも、 話し言葉のヒビキの中に、真実があるかどうかを、じっと感じあい、探り合っていたのが、この日本列島にいきる多くの民でした。 そのときのヒビキの、共振器、周波数調整器が、 ヒスイの勾玉だった、というのが、私の確信です。 仏教にしても、6世紀に、最初に日本列島に入ったときには、 仏像と、声明(お経の声)が先に伝わり、そのあとに、ブッダの世界観が口語で語られ、さらに、8世紀にはいって、ようやく、漢文の仏典が、読みこなされたのではないか、と考えます。
しかし、5世紀の初めにできた、誉田丸山陵(伝、応神陵)や大山陵(伝、仁徳陵)にみられる見事な、幾何学を駆使した図形や文様をみるとき、そこには、高度な、計算式を持った人間が入り込んでいたことが分かります。
先住の土着の人間が、音・言霊という響きに強く反応していたところに、自然現象を、数理的に捉えることが出来る人間が、4世紀の終わりには入り込んだのではないか、と考えられるのです。ローマ時代の建築物や、始皇帝陵を建築した知識を持つ人間達が、そのときには、日本列島に君臨した大王(オオキミ)の周りにいたことは間違いないでしょう。
彼らは,当然、天の運行や、地上の人間社会の運命をも、数値化しながら、法則性を探していたはずです。大陸では、それは、唐の時代に、「風水思想」と「周易」にまとまりました。
中国大陸で最高の風水の地は、すでに紹介した、中国四川省の閬中ですが、この発音は、中国版アルファベット表記 だと 「láng zhòng」 となりますから、この読みは現地語で「らんちょん」になります。 まあ、日本語読みでは、「ろうちゅう」でもいいでしょう。
この閬中の地で亡くなった三国志の英雄が、張飛でした。 208年の赤壁の戦いから、13年後、劉備玄徳は蜀の皇帝になり、呉への侵攻を企てます。1万の兵を任された車騎将軍の張飛が、江州で劉備と合流すべく、この閬中を出発したとき、日ごろの厳罰に耐えかねた部下の手によって切り捨てられたのです。
さて、その当時、日本列島では、どうだったでしょうか? 卑弥呼が九州で着々と地盤を広げている時でした。 そして、諸葛孔明が五丈原で死んで(234年)から4年後、卑弥呼は、魏の支配下にある帯方郡に使者を送っています。
こうした歴史事実を探りながら、 今、生きていることを、十分に楽しむ。
それには、本当の意味での「心地よさ」が必要です。
今の、日本は、過剰な競争社会、そして、放射能汚染社会になってしまいましたが、本当に、心と体が、リラックスできる、伸びやかな空間がないと、楽しい発想や、思いやりに溢れた思考も浮かびません。
いい水がないと、イノチが回復できず、また、風も雲も、そして、魂を震わす、芸術も湧き上がりません。
こちらの活動に軸足を移していかないといけません。そして、過去と今とを結ぶ、素敵な物語を、たくさん紡ぎだしたいと思います。
明日、浅草橋で、会いましょう。