NHK「西郷どん」の禁門の変。事変勃発前に、桂が西郷の手引きで慶喜に会った。このとき、勝や高杉はどこにいた?

こんにちは。
NHKは、大河ドラマでは、いつも、幕末と戦国ばかりを取り扱います。 なんでなのでしょう。
ウマヤドや 天武が大活躍する飛鳥時代は、取り上げられたことはなく、持統の即位や31回の吉野行もありません。
持統と天武の子である草壁皇子の子とされる軽皇子の即位も取り上げないし、高市皇子の殺害の背景も分らないまま。
犬養三千代に、なぜ、持統の妹の元明の大嘗祭で、「橘」姓を与えたかも。
東大寺の大仏を造るときの恭仁京から奈良への造像場所が変更になった理由も分らないし、大仏の鋳型が完成し、その大きさが誰の目にも分かる頃、大陸の唐では、楊貴妃と安碌山が、長安の宮廷に入りだした。
聖武天皇の崩御の後、道鏡事件を経て、光仁の即位、桓武の長岡京など、重要な歴史事実があるのに、これらは、なんで、大河ドラマにしないの?  日本人なら、ちゃんと知っておくべき、歴史事実がたくさんあるのに。
その点、中国の大河ドラマの「孔子」と「項羽と劉邦」は、 漢字文化と、「中華」を知る上で、教育効果は抜群だった。
 昨日の「西郷どん」は、禁門の変。蛤御門の変でした。
これまでのNHK大河との違いは、将軍になる前の、一ツ橋慶喜と、西郷との関わりを、描いていました。
しかも、何と、長州の桂小五郎が、貧民に変装して事前に西郷に会い、しかも、慶喜に会いたいと申し出で、これが実現する。慶喜を交え、薩長と徳川で、日本を造り変えようとの合意ですが、この三者密会が池田屋騒動の前にあった。
ウキペディアの慶喜のところには、この1864年の慶喜について以下が解説されています。
<禁裏御守衛総督>
参預会議解体後の元治元年(1864年)3月25日、慶喜は将軍後見職を辞任し、朝臣的な性格を持つ禁裏御守衛総督に就任した。以降、慶喜は京都にあって武田耕雲斎ら水戸藩執行部や鳥取藩主・池田慶徳、岡山藩主・池田茂政(いずれも徳川斉昭の子。慶喜の兄弟)らと提携し、幕府中央から半ば独立した勢力基盤を構築していく。
 江戸においては、盟友である政事総裁職・松平直克と連携し、朝廷の意向に沿って横浜鎖港を引き続き推進するが、天狗党の乱への対処を巡って幕閣内の対立が激化し、6月に直克は失脚、慶喜が権力の拠り所としていた横浜鎖港路線は事実上頓挫する[2]。
同年7月に起こった禁門の変において慶喜は御所守備軍を自ら指揮し、鷹司邸を占領している長州藩軍を攻撃する際は歴代の徳川将軍の中で唯一、戦渦の真っ只中で馬にも乗らず敵と切り結んだ。
禁門の変を機に慶喜はそれまでの尊王攘夷派に対する融和的態度を放棄し、会津藩・桑名藩らとの提携が本格化することとなる(一会桑体制)[3]。
 また老中の本庄宗秀・阿部正外が兵を率いて上洛し、慶喜を江戸へ連行しようとしたが、失敗した。一方、長期化していた天狗党の乱の処理を巡っては、慶喜を支持していた武田耕雲斎ら水戸藩勢力を切り捨てる冷徹さを見せた。
それに続く第一次長州征伐が終わると、欧米各国が強硬に要求し、幕府にとり長年の懸案事項であった安政五カ国条約の勅許を得るため奔走した。慶喜は自ら朝廷に対する交渉を行い、最後には自身の切腹とそれに続く家臣の暴発にさえ言及、一昼夜に渡る会議の末に遂に勅許を得ることに成功したが、京都に近い兵庫の開港については勅許を得ることができず、依然懸案事項として残された。
まあ、簡単に言うと、この禁門の変を切っ掛けに、、慶喜は、将軍職への道が一気に開いたのですが、
同じNHKの大河ドラマで、幕末を描いた「篤姫」では、最初、なぜ、島津の分家から篤姫を本家が養女にし、しかも、第13代将軍家定に嫁がせるのですが、このときの目的について、劇中、島津斉彬の口から「一橋慶喜を将軍にする」ときちんと描かれ、その篤姫と島津との連絡係に、西郷を設定していた。
禁門の変は、慶喜と西郷を近づけさせ、しかも、長州の攘夷の過激派を退けた。
さて、ここで、問題。
 このとき、勝海舟、高杉晋作、そして、薩摩の五代友厚は、どこにいたのか?
高杉は1862年に、アヘン戦争と太平天国の乱の後の上海に行って、その清国の実情を坂本龍馬らに報告しているのですが、なぜか、この禁門の変の時、そこにはいなかった。これは、桂と同じく、攘夷の過激派ではなかったということですが、当然ながら、勝海舟は、高杉の報告を知っているでしょう。
薩摩では、文久3年(1863年)7月、生麦事件によって発生した薩英戦争で、五代友厚が、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となるが、通弁の清水卯三郎のはからいにより、横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出、江戸に入った。
 当然、このとき、勝とコンタクトしているはずです。その五代に対し、薩摩の 国元では、イギリスの捕虜となったことが悪評となったため薩摩に帰国できず、しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。このとき、西郷が呼び出されたのです。
ここで、私が知る「伝説」です。
この禁門の変のとき、この、勝・高杉・五代の3人は、実は香港に向かっていた、というのです。
それは、まだ4歳の「さる方」を連れてくるためだった、と。
それは少女で、日本に到着した時には、孝明天皇は慶喜に全幅の信頼をよせ、西郷は完全に慶喜の指揮下に入っていた。
このあと、第二次長州征伐のあと、薩長同盟となり、高杉の奇兵隊が動き出し、龍馬とともに小倉城を占領する。そこに幕府側は肥後藩兵士に突撃させようと体制を整え、14代将軍家茂から命令が来るのを待っているとき、その家茂が急死した。
そして、慶喜が将軍になっています。まあ、斉彬の思惑がようやく実現というわけです。
 
この辺り、次回以後、どう描くのかな? もちろん、「さる方」の存在は隠し続けるでしょうけど。

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この記事を書いた人

新井信介

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。