今日、「地球史の中の天皇誕生」の4回目です。
本日、午後二時から。 会場は、三田です。 地図→ 160626_地図_田町.pdf
内容は、応神から、雄略・継体・欽明、そして、ウマヤドまでです。
この時期は、4世紀末から、6世紀末で、今につながる、多くの宗教の基礎ができたときです。
古事記・日本書紀は、8世紀の初めに編纂されましたが、奈良に平城京ができるころ、自分の国家(統治体)が、どのようにしてできたのか、その事実を知っている不比等が、
その時点での支配領域の民に、どのような物語を、政治的に了解事項として信じ込ませるか、が書かれたものです。
例えば、712年の古事記完成の時点で、すでに半島には、新羅しかありませんが、
高句麗・百済・伽耶(任那)の人間は、どうなったのか?
秦始皇帝以来、古くは「殷周革命」以来、大陸から多くの人間が列島に入り込んで定着し、通婚し、独自の部族・豪族を形成していますが、
それらが、なぜ、「一つの権力体」と、「共通の権威」を生み出すことができたのか、ここが、最も肝心なことです。
応神(ホンダワケ)時代に、それまでの崇神時代からの前方後円墳とは異なった、つぼ型の巨大古墳が河内にできます。それを作り出すには、当然、それまでにない大人数の動員が必要です。この動員は、何によって、できたのか?
冷静に考えて、応神のときから、日本列島にある王権(統治体)は、それまでよりは広い範囲に及ぶ人間の統治を形成した、のであり、その統治に新たに加わる人間が、このとき、爆発的に増えだしたことを意味します。
ホンダワケの統治体が、次のオオサザキ(仁徳)に引き継がれたのは、巨大古墳が事実だと物語っています。
応神の誉田丸山陵から、北燕の鞍が出土しています。これは、北燕の王族をも、畏敬あるいは屈服させる権威を、この応神がもっていたことを意味します。それが、仁徳の時代か、そのあとの履中の時代にも続いていたと。
国宝 鞍 大阪府誉田丸山古墳出土
さらに、履中の時代には、蘇我満智が大臣になっています。蘇我氏はなにが評価されて入閣し、以後、どんな役割をしたのでしょう。6世紀初めに継体が即位すると、蘇我は、今の奈良の曾我川で勾玉工房をもち、糸魚川のヒスイを独占的に加工・流通させることで、莫大な財産と権力を作っていきました。
一方、5世紀の後半からは、各地で、金属製の甲冑が多く出土します。鍛造鉄が普及したことも確認されています。当然、戦争があり、ここでは騎馬が使われだします。
そのときの勝利者は、ワカタケル、すなわち、雄略ですが、この人物は、九州から関東まで軍事制圧し、大和の和珥氏には「春日」の姓を新たに与えます。 これが、春日社・春日大社の権威の起源です。
雄略は、列島内に、大陸の呉地方から、呉織・漢職という職人を多く呼び寄せ、すでに、日本列島に入ってバラバラに活動している養蚕業の人間=秦氏を纏めて、組織的な運営を始めます。
この時に、半島では、百済が、高句麗の長寿王に攻められ、いったん滅亡しますが、このとき、日本列島に亡命していた王族を拾い出して、百済を復活させます。百済の武寧王(桓武の母、高野新笠の祖先)が、唐津の呼子の出身であることは確定された事実です。
この雄略に、伊勢朝日郎子が反発していますが、それはなぜなのか?
雄略のあと清寧には子供がいなかった。丹後で、履中(仁徳の子)の孫が見つかったと知って喜び、二人兄弟のうち、名乗りを上げた弟が先に即位して、顕宗。それを促した兄が、仁賢です。その次が、悪名高き武烈。
8世紀、弓削道鏡事件で称徳女帝が退陣後、天智の孫にあたる白壁王が即位します(光仁)。このとき、同じく天智の孫の近江三船は、記紀が書きだした天皇たちに、漢風の諡号を付けましたが、
「雄略・清寧・顕宗・仁賢・武烈・継体」は、意味深長です。
日本列島での王権は、常に、始皇帝以来の中華の王権との関係の中で、発生し、発展していきました。
この中で、いつ、中華を超える意志が生まれたのでしょう。
また、始皇帝の秦帝国が、どうやって誕生したのか、そのきっかけとなる政治的な意図の核心と、統治体としての強さの秘密まで、知っているものが、この応神から、継体の時代にも、列島にきて、彼らの視点で、
倭国王と、そして、倭国王ではない、もう一つの王権(「日本」の元)を、意識していたはずです。
この間、ずっと、ダビデ以後の古代イスラエルの各支族(10+2支族)の流浪の足跡や、イエスの生き様と、その存在や運命の意味が語られていたはずです。
ここで、5世紀のサーサーン朝ペルシャが、極めて重要になります。
ゾロアスター教を基礎に、ペルシャではキュロスの時代からユダヤ教を同居させ、さらに、ローマに弾圧された原始キリスト教、さらに、エフェソで異端とされたネストリウス派の教えを受け止め、保護したのです。
しかも、451年のカルケドン会議以後、流れ込んだ純粋ユダヤ人と、マニ教からでたマズダグ(最古の共産主義)の教えを使って略奪の根拠としていたエフタルの人間が、出会っているのです。
今に続く『バビロニア・タルムード』は499年に完成し、以後、ペルシャに入り込んだエフタルは、偽の銀貨を大量に作っているのです。 この人間たちが「白いユダヤ人」の始まりです。
彼らを滅ぼしたのが、西突厥のシルジブロスと、ペルシャのホスロー1世でした。このときの勝利を祝うようにして生まれたのが、タルドウです。
この間に、ペルシャの東側、かつてのクシャーンの地域(
ガンダーラ)で、多くの宗教が行き交い、絞りだされたそれぞれの叡智は、西域の敦煌で漢文に翻訳されながら、書物で残され、北魏時代の中国大陸に入り、タルドウの時代には、日本列島にも届きました。
中華の王権の支配下で、よき学習者であることを喜んだのが、倭国 としたら、
中華の王権とは対抗し、それよりも、高い文化性をもつ、強い国家を求めて、作り出したのが、日本。
わたしは、こう考えています。
これは、607年の遣隋使、小野妹子が届けた書簡にある「日出処の天子」や、
702年に、粟田真人が武則天との面会時に、「倭国ではなく、日本国と呼んでいただきたい」 になります。
7世紀の敏達・ウマヤド(推古)・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・天武・持統 は、また、次になりますが、
応神以後、欽明までの列島での王権の変遷と、世界史的な宗教事案の関わり、大陸での隋統一までに、半島に、どんな意思の統治体があったのか、もはっきりさせたいと思います。
本日午後2時から、会場は、三田です。 連絡先は、担当: 室伏 090ー5804-5078