さて、宇治の、何神社か知っていますか?
二人の天皇とは、 もちろん、中大兄の天智 と 大海人の天武。
それは、下居(おりい)神社です。 場所は、宇治市役所の南側の丘を進んだところにあります。
今回の宇治ツアーでは、「ホンダワケ」や「ウマヤド」の誕生から、東大寺建立の秘密まで解説しながら、重要な場所を回りました。中国大陸やペルシャなどの政治や文化(宗教)状況を踏まえて真相を解き明かすのが「新井ワールド」です。
7世紀、日本列島に領土を特化した日本国(皇祖神アマテラス)が誕生するとき、3人の女性が関わりました。
ウノノササラ(持統)、 額田王、 そして、 則天武后。
この他に、645年の入鹿殺害時に一旦退位したものの、重祚した女性に、宝皇女がいます。
(彼女は、最初は、「皇極」、二度目には、「斉明」と、漢風諡号が送られました。)
さらに、私達日本人としては、大陸の女性で、忘れてはならない女性がいます。
首皇子(聖武)が東大寺の建立を進めていたとき、玄宗皇帝の唐を混乱させることで、日本を護った女性がいます。 それが、傾国の美女となった楊貴妃です。 彼女は、日本の熱田神宮で、清水社に祀らています。そして、京都九条にある、皇室の御寺(みてら)の泉涌寺には、楊貴妃観音菩薩が有ります。
以上、5人の女性は、いずれも魅力的ですが、最高の女性は誰でしょう? みなさんはどう考えますか?
歌の巧さ、もさることながら、二人の天皇から愛され、しかも、それぞれの天皇の運命を変えたのが、額田王です。
それは、668年に、中大兄(葛城王)が近江の大津で即位した時から、始まります。
この年すぐに、熱田では草薙剣が盗難に会い、 しかも、高句麗が滅亡します。
中大兄は史書では皇太子と書かれながら、宝皇女が崩御してもなかなか即位出来なかった。白村江で敗戦し、さらに、、宝皇女の娘の間人皇女(ハシヒトノイラツメ)の死後に、わざわざ大津に都を造ってから、ようやく即位した。即位後の夏、宮廷人を集め、蒲生野で狩りをしますが、その時の宴席に 遠巻きに姿を見せたのが大海人で、それを認めると、額田王は、有名な「茜さす・・・」の歌を歌います。
事態が大きく動いたのは、このあとです。
671年、大海人が大津京に現れ、天智の前で、槍を突き立てて、怒りを表わしたあと、吉野に出家に向かいますが、これが、「虎に翼を生やして、逃がすようなもの」と、日本書紀は書きました。
このとき、蘇我果安と中臣金の二人が、大海人を宇治の許波多までおくります。 なぜ、許波多だったのか?
そして、大王になっている、中大兄(葛城王)自身も、その年の秋に許波多に来ます。
許波多・・・ そこには、なにが、あったののでしょう。 どんな意味があったのでしょう?
天智の挽歌には、
倭大后の 「青旗の 許波多の上を 通うとは、目には見えねど、直に通うかも」 と
そして、 額田王の以下があります。
「かからむの懐(おもい)知りせば、大御船(おおみふね) 泊(は)てし泊(と)まりに 標結(しめゆ)はましを」
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一方、額田王のその歌の才能が、 すでに大王になっていた宝皇女に認められた歌が、以下です。
「秋の野の み草 刈り葺き 宿れりし 宇治の都の 仮庵(かりほ)し 思ほゆ」
この歌を、最初は、有馬皇子の死の知らせのときに額田王は歌ったのですが、667年に三輪山から大津(天智が新しく築いた都)に移る移動の途中、額田王一行が宇治を通ったときに、ホンダワケ(応神)時代を忍んで歌ったのです。、ここでは、宇治川を渡らなかったのですが、宇治川の流れの見える丘の上に立って歌いました。
その場所が、 下居(おりい)神社の地です。
667年の時点では、約250年前に存在した、応神天皇による宇治の都の跡がはっきりと残っていたはずです。それは、今は平等院の向かい側の、宇治神社や宇治上神社の場所です。 額田王が 近江朝廷が始まる前年に、この場所で、この歌を歌ったことは、天智の王朝が、すに終わることを予言した歌にもなっています。
許波多とは、何なのか? さらに、額田王は、なぜ、このとき、天智破滅の予言の歌を、歌えたのか?
こうしたことを考察しました。
中大兄(天智)、大海人(天武)、宝皇女(皇極・斉明) の真実は、一体、どんな関係だったのか?
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今回のツアーの最後は、泉涌寺に行きました。ここには楊貴妃観音菩薩があり、その場所では「美人祈願」の御札を入手することができます。ただ、楊貴妃は、ある意味、男社会で、使われた女性でした。
しかし、額田王の方は、逆です。二人の天皇の運命を、自分の意志で、左右した女性した。
もし、この下居神社で、御札を創るとしたら、それは、単なる「美人祈願」では、物足りません。
美人であっても、世の中には、薄幸の女性や、まったく男性に愛されないまま生涯を終わる女性もいるから、単なる「美人祈願」では、弱い。
その点、額田王は、間違いなく、その当時、一流の男性、それも、最高権力者に成る男を、心の底から魅了し、日本の運命をも、みずから方向付けた女性でした。
スーパーイケメンからの「モテ女」になれる、という「御札」が、 下居神社に、一番、相応しいかも。
今、下居神社は、この神社の意味そのものがわからない所為か、樹木で囲われ、寂れた感じが残ったままです。しかし、それは、額田王の霊が、ひっそり佇み、護られてきた姿だったのではないでしょうか。
樹木をこれ以上切らずに、上手に手を入れて、イノチを無視し続ける、バカ男主導の日本社会を根本から変える、女性たちの聖地にしてはどうでしょう。それは、縄文の感性の復権でも有ります。
この神社の境内地に、馬酔木、紫陽花、海棠、サルスベリ、木蘭、コブシ、さらに、陰地にすずらん、堤にコスモス(入り口の参道がいい)などを植えて、額田王の御霊に応えたらいかがでしょう。
きっと、とんでもない、ご褒美をいただけるはずです。特に、女性は、額田王と、真心で交流した場合には、人類の運命を切り開く、主役にまで成っていくのでは。