「311」以後、原発マフィアが生み出した安倍・菅政権での忖度とお仲間最優遇政策でボロボロになった日本国。今こそ、先人の知恵「貞観政要」をしっかり学ぼう。

諫義大夫の魏徴が大活躍した唐の李世民の治世(626~649)。

それは「貞観の治」と呼ばれます。YOUTUBEにエッセンスがありますので、ご覧になってください。北条正子や家康が、治世の手本としたものです。いまでも、その内容は十分に光り輝いています。

特に、軍備の増強を言う房玄齢に対し、李世民にがどんな反応をしたか、そのとき、魏徴はどうだったのか? じっくり味わってください。安倍様の周りの人間たちは、まず、こうした先人の知見や学識を全く学んでいないのだろうな、ということです。

【ゆっくり解説】 貞観の治 唐太宗 李世民 理想の時代を開き大唐帝国の基礎を築く【唐】李世民後編 – YouTube

ただ、その「貞観の治」は、終盤に入っていくと状況が変わっていきます。

その火種は、太宗が愛した女性の運命でした。李世民にとっての皇后は、まだ隋時代の613年に結婚したときは13歳だった長孫氏の娘でした。618年、唐が建てられると、秦王妃に立てられ、626年、玄武門の変の後に李世民が即位すると皇后に冊立され、太宗との間に3男4女をもうけ、文徳皇后と呼ばれた。その人間像は以下のように伝えられている。

皇后は礼法を尊び、いにしえの善悪を鑑として自らを律したとされる。生活は質素で華美な衣服を取らなかったという。他の妃嬪が難産で亡くなったときには、生まれた子である豫章公主を、自分の腹を痛めた子のように養育した。

李世民が政治向きのことを皇后に尋ねると、「雌鶏が夜明けを告げると、家は窮乏します」と言って、なかなか答えようとしなかった。また、兄の長孫無忌が唐朝で重用されるのにはの呂氏や霍氏の前例を持ち出して反対し、異母兄の長孫安業が李孝常の乱に連座して処刑されようとしたときには、叩頭して助命を嘆願した(異母兄の助命は、皇后としての権勢で政治に介入し、かつての恨みをはらしたとみられたくないということである)。634年、九成宮に行幸して病の床についた。636年、36歳で世を去り、昭陵に陪葬された

13歳で結婚し、3人の男児を儲け、何事であれ、李世民の良き相談相手でありつづけたが、ちょうど隋書が完成する636年に死去してからは、大英雄、李世民の運命が変わりだした。

運命の変化とは、武照(武媚娘)が、やはり、13歳で李世民の前に、才人として現れたことで、それは、推背図が予言したとおりでした。

それまで、隋の煬帝の失敗の轍を踏むまいとして、常に慎重に行動していた太宗だったが、その8年後、煬帝と同じように、高句麗遠征を始めてしまったのです。

さて、そのとき、太宗の心には一体、何があったのでしょう。

李世民にとり、皇后は生涯一人だけでしたが・・・。才人になった武照を、後世の中国史書が書いているように、太宗は、ずっと遠ざけていたのでしょうか?

630年に倭国から初めて遣唐使が来る、その前年、玄奘は太宗からインド行の許可を得て交昌国に向かっていたのですが、このときその地の王、麴文泰から自らの師としてそこに留まることを求められた。しかし、玄奘はそれを断固拒否し、絶食してまで出立の許しをもとめ、天山越えにこだわりました。インド行だけなら天山を越えず、カシュガル方面からタジクやアフガンに抜けるルートがあるのですが、異様な執着でした。

実は、玄奘が希望するインド行を太宗が許可した裏には、必ず、西突厥の首府スイアーブにいけという密命がありました。しかも表向きはインド行なので、スイアーブに行く通常ルートのイリ川を下るコースを通ることができず、玄奘はやむなく天山山脈を南側から越えてイシククル湖に出たのです。そしてスイアーブでタルドウの孫にあたる統葉護可汗に会ってから、サマルカンドを経てインドに入ったのです。

太宗が高句麗遠征を決意する644年の初めは、玄奘がインドでの研修を終えて帰国の途に着き、大般若経16部600巻を携えながら、アフガンと新疆を結ぶワハーン回廊を渡っている頃でした。

私は、李世民が、隋の煬帝が果たせなかった高句麗征服を、自分ならできるはずだ、やって見せる、と思って親征にのりだした、と考えますが、その裏には、母方の祖父に、隋の名将、楊達を持つ武照のけしかけ(挑発)があったと考えます。それは、高句麗で淵蓋蘇文による宮廷クーデター(643年9月)があった直後でしょう。

しかも、その高句麗遠征で李世民は負傷した。特に、目を射抜かれた。これは朝鮮側が中華の皇帝に勝ったという事実のなかで、語り継がれてきた伝承になって、今も残っています。中国人はみな作り話だと否定しますが、どうでしょう。太宗時代の高句麗遠征は3回ありますが、唐側の記録があいまいです。しかも、朝鮮側(高句麗)のいう太宗の目の負傷が、第何回目の遠征だったのか不明で、これが、列島では、大化改新と、国の博士(高向玄理、僧旻)の活躍時期に重なるのです。

このときの唐朝には、もう、魏徴も房玄齢もいませんでした。さらに推背図の作者の一人袁天罡も(弟子の李淳風は670年に死去)。

唐による高句麗征伐は、最後は、唐の初めには紅幇の首領だった李勣(594ー669年12月31日)によって、息子の高宗の代の668年に達成されましたが、この武将は、太宗の崩御の後、なぜ、李世民の才人だった武照が、高宗李治の皇后になることに反対しなかったのでしょうか?彼女は、612年の煬帝の高句麗遠征で戦死した隋の名将軍、楊達の孫でもあるのです。

日本書紀に書かれた、推古・舒明・皇極・孝徳・斉明・天智とつづく倭国の王位の推移が、唐の太宗李世民と、その才人だった武照の生涯がどうかかわったのか、この関連性にこそ、今の、日本の天皇制度の出発を解明する糸口があると、私は睨んでいます。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。