岸田内閣発足を伝える5日の日経「春秋」コラムに、唐代に「諫義大夫」というポストがあったとわざわざ伝えた。その役職は、唐の太宗李世民が隋書を書いた魏徴に与えたもの。名句「人生意気に感ず」はこのとき誕生した。

昨日10月15日のYOUTUBEの補足です。
以下は、私がまだ若い友人に送ったメールです。
ーーーーー引用開始ーーーーー
Tさんへ。 諫義太夫 魏徴 について
以下は、貴君にぜひ知っておいていてほしい、人物とその故事成句です。

「人生 意気に感ず」の名句のもとになっている歴史上の事実で、

日本では、遣隋使(600年、607年)の後、最初の遣唐使(630年)の時代のことです。

日経新聞の10月5日「春秋コラム」で、諫義大夫(かんぎたいふ)に触れています。

 

唐代のポスト 諫議大夫(かんぎたいふ)。

(このメールの最後部に、当該部分の写メを添付した)

これは、「日出る処の天子」の一節が出てくる「隋書」の執筆者となる魏徴が、

太宗李世民の臣下になるときに設定されたポストでした。

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日経のコラムニストが以下の事実を知っていたかは、疑問です。

李世民は、626年に玄武門の変で兄、李建成を討ち、

父、李淵を皇帝位から引きずり下ろし、自らが第二代の皇帝になった。

 

その前、李建成の臣下になっていた魏徴は、

 

「弟の李世民は、必ずあなたを殺しに来る。

先にあなたが殺(や)らなければ、殺られてしまう」と、献策していたが、

 

李建成はもう一人の弟、李文吉も自分の側についているからと、その時の切迫感が分かっていなかった。

 

しかし、李世民は、李建成陣営の動きを察知していた。

魏徴とは何者か?

580年生まれの隋代の文人だったが、煬帝の統治を疑問視した一人だった。高句麗遠征の大敗北の後に、全土で沸き上がった隋打倒の動きは、河南省東部に反隋勢力の拠点,瓦崗寨(がこうさい)を創り出すことになり、魏徴もそこと交流を深めた。この集まりが紅幇の起源で、二代目当主となったのが、まだ若い李勣(当時の名は徐勃興、別名、徐世勣)だった。

 

唐朝は、618年、反隋の動きが全土に広がる中、煬帝が揚州で首を吊るしかなくなる、その直前に始まった。太原太守だった李淵が隋朝への忠義にこだわり中々立ち上がらないことに業を煮やした次男の李世民が、父に隋の皇帝、煬帝の宮女に手を付けさせるという画策を仕掛け、その事態になって、ようやく、こうなっては旗を揚げるしかない、と決起を覚悟させたのが唐の「大業」の始まりだった。

しかし、大陸には、隋の後継王朝を目指す動きは各地にあり、それを李世民は撃破し、なかには、軍門に下させることで自らの支配勢力を固めていった。そのとき、支援した仏教勢力が、「少林寺」の僧侶たちだった。

621年、瓦崗寨に籠っていた反隋グループを李世民が自らの旗下に収めたとき、李淵に頼み、その時の首領の徐世勣(徐勃興)に「李」姓を与えた。これに対し、「世」の字を名乗るのはおこがましいと、以後、李勣と名乗った。

 

(このとき、列島では、倭国の大王(オオキミ)だったタルドウ(ウマヤド)は、

もはや唐の天下は確定したと、列島を去る決意をした。 )

 

紅幇の首領が李世民に下り、瓦崗寨が崩壊したあと、魏徴は、どの勢力につくか迷っていたが、長男の李建成の方に見いだされ、その臣下となった。

 

しかし、このあと、隋の後継王朝の成立を巡る争いがまだ残って取り、

それが片付くと、唐朝の中で、内紛が勃発する。原因は、次男の李世民の声望が高まりすぎたことだった。

その中で、 626年、玄武門の変が起きる。

兄の李建成が、自分の暗殺をもくろんでいると、察知した李世民が、

先に動いて、 唐の朝廷の玄武門で殺害した。

 

そして、すぐさま父の李淵を退位させて幽閉し、自らが皇帝位についた。

この後すぐに李世民は、李世民殺害を献策した魏徴を探し出しにいった。

みつけだしたときに、こういった。

 

「魏徴よ、今後はオレの部下になれ、ただし条件がある。

けっして、イエスマンなるな、おべんちゃらを言うな。つねに真実を言え。

おれが皇帝として、間違いがあれば、必ず、指摘しろ。」

これが、諫義太夫(かんぎたいふ)の始まり。

 

これを聞いて、魏徴が感激する。

それを、漢詩に詠んだ。

それが、唐詩選の巻頭詩「述懐」。

そこには、 名句「人生 意気に感ず」がある。

 

李世民が魏徴を得ると、列島では蘇我馬子が死に、

2年後の628年、推古が死去。 倭の大王(オオキミ)は、舒明になった。

ここから、列島内での建築様式は、南北方向を軸にするように変わった。

それまでは、604年(この年は隋の煬帝の即位の年)からは、

列島内の建築(特に奈良)は、タルドウ(ウマヤド)のシリウス信仰で、

南北から左に20度傾いた聖方位(法隆寺の太子道が有名)だった。

 

舒明は新羅と関係の深い息長氏の出身で、その妻の宝皇女(皇極・斉明)とは、タルドウと莵道貝蛸の間にできた娘だった(茅渟王と吉備姫の娘は不比等の創作)

隋書では、日本書紀にない600年の遣隋使(隋では、文帝楊堅)が伝えたこととして、

倭の大王(オオキミ)が「アマタリシヒコ」、皇太子が「リカミタフリ」とされ、

その治世は「天を兄とし、日を弟とする」。その国には、「火を噴く山、阿蘇山あり。青い石があり、それは『魚の目』と呼ばれる」と報告された。

 

630年の第一回遣唐使は、舒明(息長氏)が唐への恭順を示す為に送った。

その前年629年、隋代からの史官、姚思廉は、梁の歴史(梁史)をまとめあげていた。

しかし、そこでは、列島の卑弥呼が、魏の帯方郡への使者の派遣の年号を、

魏志にある景初2年(238年)を、景初3年(239年)に改ざんし、

公孫淵が列島に亡命したという事実を、完全に隠した。

これは、唐代の宰相、房玄齢(578~648)の指示だったと思われる。

この頃、話された内容をまとめたのが「貞観政要」。

突厥を制圧し、唐朝の国家体制作りで絶頂期になった李世民は、房玄齢に命じ、いよいよ、唐朝の命運、そして、唐から始まる「中華の天下」を占わせた。

このとき道教と天文学が分かる袁天罡(エンテンガイ573年-645年4月)とその弟子の李淳風を見出し、彼らによって纏められたのが、「推背図」

 

ここに、武照(則天武后、武則天)の登場が予告されている。

 

636年に、太宗に命じられ、魏徴が、「隋書」をまとめる。

ここでは、倭国のことを、魏徴は、あえて「俀国(タイコク)」と記した

(タルドウが日本列島を592年~622年統治していた事実を意識していた。 )

そのころ、武照(後の則天武后)は、才人として唐の太宗の宮廷に現れた。

 

魏徴は、643年に死去するが、(その前年、列島では舒明から皇極(宝皇女)に)

 

この年、9月、高句麗では、淵蓋蘇文が栄瑠王を平壌宮廷で殺害。

11月、日本列島では、蘇我入鹿が山背大兄を殺害。

冬至には、蘇我蝦夷が、飛鳥の甘樫丘で「ヤツラの舞」を挙行。皇極女帝は、信濃善光寺に、伽藍の建築を勅命した。

 

日本最初の元号「大化」は、蘇我入鹿が殺害された「乙斯」年、645年につけられた。

この年4月に袁天罡が亡くなっている。

649年、太宗李世民が崩御。この年、倭国では、二番目の元号「白雉」。

李世民の才人だった武照は、唐の元勲が皆反対する中、654年、高宗の皇后(則天武后)になった。このときただ一人、それは「家の中での事だ」と言って容認したのが、重臣になっていた、かつての紅幇の首領、李勣だった。

李勣は、668年高句麗を滅ぼし、翌年亡くなると、太宗の昭陵の傍らに葬られた。この年、列島では鎌足が死に、天智から「大織冠」の爵位が送られている。

674年、則天武后(武照)は唐の実権を完全に掌握し、高宗を「天皇」、自らを「天后」と称しだした。

683年、すでに目が目えくなっていた高宗が年末に崩御。

686年、列島では天武の臨終の7月20日から9月9日を、三番目の元号「朱鳥」とする。

690年、武照は、女性で初めての皇帝、武則天になったあと、国名を「周」とした。

702年年末、前年に完成した「大宝律令」を携えた粟田真人が列島から出航し、

翌年、洛陽で女帝に拝謁し、「今後、倭国を日本国と呼んでほしい」と申し出ると、

武則天はそれを認め、大中小の「海獣葡萄鏡」(697年西安製)を持たせた。

なお、粟田真人と同船していた弁正(秦河勝の一族)は、そのまま残った

705年、武則天が崩御し、中華の帝国は、国名が「唐」から「周」にもどった。

弁正は、武則天の孫にあたる李隆基(後の玄宗皇帝)の囲碁の指南役となって、周から唐にもどる、中華帝国での泳ぎ方を指導していた。

新井信介

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「述懐」の内容は、ここ、(個人ブログで、筆者の感想を交えるが、理解が浅い)

獅子たる君へ 魏徴の漢詩より|SEKI Takao de Kikko Naioya Lanakucher|note

こっちの方が分かりやすいかな。

人生意気に感ず     魏徴(ギチョウ・580~643) | 名言、故事、ことわざ ときには世迷いごと MOOSE のブログ – 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

 

あと、玄武門の変は youtube に いくつかありますが、

とりあえずこれを見て。

【ゆっくり解説】 玄武門の変 唐太宗 李世民 流血の果てに大唐帝国を開く【唐】李世民中編 – YouTube

 

最後に、日経10月5日の「春秋」 の写メ

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。