天空に輝く星と地球の女神。地上現れた、想像と創造のできる生物、人間。人間に支配欲・名誉欲はあるが、国家はどう関係した?愛はなぜ生まれ、なぜ消えるのか?「日本」を認めた武則天までの流れは?

<グレートリセットのなかで・ユダヤイスラエル問題>。

1897年、「ユダヤ人は独自の国家を持つべし」という、第一回世界シオニスト会議は、永世中立国のスイスのバーゼルで開かれ、その意志は世界中のユダヤ人に広がった。それを受け、20世紀になって、イスラエル国家の建設は、人類が二つの世界大戦を経て、ブレトンウッズ会議で、米ドルによる、世界の基軸通貨体制が決まった後に、1948年5月にパレスチナの地に成立した。最初は、宗教的熱情からの要請といわれたが、そこに、目をつけたものがいた。それが「戦争屋」という悪どい、商人たちだった。

パレスチナの地に、古代のユダヤの国家再興を掲げる「政治体」が強引に生まれると、急速に周辺の領土を侵食しだした。この国家が、ユダヤ教徒、ユダヤ人の国家で、それ以外の人の信仰形態や暮らしぶりを認めない、軍事国家だった。

それを応援し続けたのが、戦後の覇権国アメリカ。中でも1971年のニクソンショックで米ドルの金本位制が終わり、1973年の第4次中東戦争が起き、戦後の基軸通貨になった米ドルでしか原油が買えなくなると、急激にこの「国家」は支配地域を拡大し、イスラムとの紛争が拡大。それが今でも続いている。この勢いはこれまで国連でも止められなかった。

そのときパレスチナのイスラム教徒たちは生存領域を、ヨルダン川西岸と地中海側南西部「ガザ」地域に限られ、人権も何も保障されない中、そこに反イスラエルの闘争集団ハマスが生まれ、軍事組織にまで成長してしまった。

その成長を促したものがいる。これは、憎しみを増大する動きだった。

イスラエル側は、自国民の身を守るといって壁を築いて、アラブ側の人間の生活を圧迫し続けた。それに対し、それを壊す意思と力は世界中のイスラム勢力に静かに拡大していったが、この間、戦後の日本はイスラエル支持のアメリカの支配下であり続けた。

<日本とは、何か? ダビデ王以来の人類文明史の中で>

1840年のアヘン戦争後、イギリスの世界戦略のなかで近代国家になった日本。戦後はアメリカの支配下になった日本。この国家はいつ、どのようにして、どんな人たちによって生まれたのか?そもそも日本列島に国家(統治体)を持つという意思は、どこで生まれたのか?それは縄文時代からの自然発生なのか?その意思は、穀物生産と関係なく発生したのか?

日本列島での王権成立の歴史は、国家の起源を記紀神話を基に語りだすと、ファンタジーとの区物がつかなくなる。

日本列島で農耕はいつから始まったか? これは3000年前、殷周革命後の佐賀で、菜畑遺跡の稲作が確認されているが、そのときに王権は生まれたのか?そのあとに、いつ、青銅器を含む金属器の普及が始まったのかのか? 鉄と騎馬と文字はいつからか?

そして、現代にまで続く、王権誕生にまつわる物語は、いつ生まれ、どんな人々によって語られだしたのか?

<3000年前からの王権の興亡と、日本列島での王権>

ユーラシアでは、3000年前のダビデ王が、部族を超えた王権の成立を目指した。同じ時期に中国大陸では、西方から騎馬を使いだした姫氏が陝西省の岐山に集まり、殷からの政権を奪った(殷周革命)。このとき、殷の人間は離散し、一部は日本列島にも入り込み、水稲稲作を齎した。これが佐賀の菜畑遺跡。

その後、中国大陸では、周の支配が崩れ、春秋戦国時代になり、諸子百家が多く誕生する。ヨーロッパでは、ギリシャに賢人が続出した。ペルシャでは、アケメネス朝が起き、それを倒したギリシャ文化圏のマケドニアのアレクサンダー大王はエジプトを征服した後、中央アジアのソグドを征服した。そのとき、シル川をさかのぼった遠い先に肥沃な中国平野(中原)があることを知らされ、そこを目指して進軍し、シル川の源流のキルギスのナリンまで来たが、後方で反乱が起きたために引き返し、アフガン・インド北部に向かった。

そこで、大王自身に「悟り」を開かせる仏教僧と邂逅した。その地は後に「GANDHARA(ガンダーラ:ギリシャ人の悟り)」と呼ばれた。

アレキサンダーに従ってキルギスまで来ていたペルシャの武将たちは、それよりも500年も前に、ユダ族の一部が天山の北にあるイシククル湖を出て、さらに北に流れるイリ川を進んでいったことを知った。イリ川を遡上すれば、中国大陸の中原に通じる河西回廊につながる」。一行は、イリ川で休憩後(この地が、ヤマト=雅馬図と呼ばれた)、河西回廊を東に進み、現在の甘粛省天水に至り、ここで、先住していたユダ(秦)の民と出会い、彼らから、伏羲がその地でなくなったことを確認した。

ペルシャの武将たちは甘粛のユダ族(秦)の人間と合流し、楚に対する対抗策を授けた。これが、BC325年。まず、四川盆地を押さえ、兵員と兵糧の基地として開発し(ろう中)、そこをベースにして、楚を攻める。ここから秦帝国の拡大が始まりで、その中で始皇帝が誕生した。この人物には、それまでの千年にわたるユーラシア人類史の英知が、凝縮して伝えられた。ここには、のちに安房宮を作り出す、天空からの知恵も込められていた。

その秦帝国の体制(統治構造)を引き継いで出来上がったのが、劉邦による、漢。劉邦は、始皇帝に倣って、未央宮をきずいた。劉邦は老子・孔子の叡智だけでなく、広く、天文と人間社会の関係性まで視野に入れて、新らに統治の枠組みを細かく作っていった。これ以後の中国大陸の文明化とは、天と人間世界の関係を見極め、儒教の礼を学び、文字での伝達手段の漢文(竹簡)を知ることだった。

それを引きつぎ、完成させたのが、前漢武帝劉徹。この人物の即位の時に、初めての元号「建元(BC140)」となった。

このころまでの中国大陸の政治的大事件と日本列島の人間生活には、政治風土の上で大きな関りがあったが、それから800年を経て、記紀が書かれた唐の則天武后までの関係を、不比等は文字上ではすべて隠し、列島の王権とは「天から与えられた特別な王権」と設定し、それに沿った物語を作り、列島の支配下の民に強制しだしていた。中でも、大陸と列島の日本海側、特に、千曲川水系での多くの部族(高句麗)の軌跡を、徹底的に隠した。

もちろん、幕末から明治維新で、列島が近代国家に向かうときにも、紀元前からの列島と大陸との関係性を隠し続け、不比等がつくった物語を、列島に来たイギリス人も、桓武から続く公家たちも、列島統治のために踏襲した。これは、列島の王権を中央集権化して自分の思い通りに運営したい、アヘン商人および金融マフィアたちの意思でもあった。

すべては、孔子の時から言い伝えられてきた「聖なる大地・日本列島」こそ、すべての始まりだとする政治的信念こそが、列島に集まった人間を精神支配するための要諦だった。

文献的に列島と大陸の関りを示すのは、前漢に代わって誕生した王莽の新を打倒して、再び漢を起こした光武帝劉秀の時。ここで、列島から「漢倭奴国王」と名乗るものが漢に朝貢し、光武帝から金印を授かった。

以後は、列島は漢の文化圏および統治圏に入り、各豪族で長を名乗るものは、光武帝によって統一された漢字を読むのが知識人であり、それから50年後のAD107に、倭王帥升と名乗るものが、後漢の都、洛陽に、「生口」を献上した。これに反発する勢力は中部以東に多く存在し、縄文からの響きの国を守っていた。そのまとめ役だったのが、「ニギハヤヒ」だった。

以後の後漢の朝廷では、宦官と外戚による内部抗争が拡大し、その動乱は朝鮮半島や大陸東北部を巻き込みながら列島にも及んできた。常に、大陸から列島に、「逃避」や「侵略」の形で入りこむものたち相次ぎ、そのまま定着し、列島の先住者と融合しながら列島に根付き、中華の文明を、縄文の精神性の中で伝えてきた。

それ以前までにも、大陸から列島に入ったものはいたが、彼らは、列島の民がヒスイを持って平和的に交流しあう姿に憧れるものばかりだった。その憧れの起源は、孔子本人であり、実際行動の嚆矢は、始皇帝の長男の扶蘇であった。始皇帝の泰山封禅の直前には、扶蘇の要請を受け、方士の徐福が、この島国に秦の理想国を実現すべく視察に入り(佐賀の金立神社)、6年後、始皇帝が征服した六か国から3000人の職人を選りすぐって、その技能を列島各地に伝播させた。それをよく吸収し、改良を加えていったのは、縄文以来のイノチの響きの感覚を受け継ぎながら、リアルでの実効性のみを見つめるのが列島に集まった各地の民たちだった。

これで、それまでは農業の現場では、貫頭衣装を着て、石の道具を使って稲作を進める段階だった列島民が、金属器や暦を使った農業生産の拡大とその分配という仕組みの中で、初期王権の基盤が生まれだした。しかも、そこには、ユーラシアで農耕が始まった6000年前と時同じくして、ヒスイをもった「響きでの情報交流」という、イノチのネットワークの体系が継承されていたので、その普及は早かった。翡翠ネットワークでの感性は、大陸からどんな人間が入っても、列島からは失われることはなく、平穏な生活を続けていた。

列島の西側から始まった農業生産(暦)は、大陸からの青銅器のほぼ同じ時代に、朝鮮の伽耶地方から鉄がもたらされ、農業生産の効率が上がったが(最初の鍛冶工房は淡路島)これは最初は武力での政争に使われる武器にはならず、相手のイノチの響きを感じあう、部族共存の形態の中で使われ、大陸とはまったく別種の文明体系だった。それが、6千年前から続く、ヌナカワ姫を柱にした列島独自のものだった。それが、アレクサンダーの死(BC323)の後、列島に入り込んだ渡来人との融合だった「古代出雲」であり、その時の倭の王は、ニギハヤヒと呼ばれていた。

列島で確立していたのは、音(響き)による、各部族の平和共存体制だったが、それを壊したのは、後漢になって入りだした、大陸型の支配従属関係での力の統治だった。その戦いは、2世紀に入ると九州から瀬戸内地方に広がり、「倭国大乱」と、中国史書に記載された。このころ、すでに、漢字のわかる人間は、列島と半島とにそれぞれいて、大陸で起きた黄巾の乱からの政変を具に観察していた。また、北信濃には、鉄を祭祀用具として、伽耶地方に発注する地域も現れた(木島平の根塚遺跡)。

そうした中で、大陸では、宦官の家に生まれた曹操が頭角を現す。そのきっかけは、AD172の許生の乱だった。それ以後の事実は、大陸では、魏史に詳しいが、列島のことは、中華皇帝にとっては、常に「東夷」の扱いだった。この東夷には、中原のものが、山東半島や朝鮮半島経由のみならず、北側の蒙古高原をへて王権を築いいてた高句麗の人間も多く入り込んでいた。

始皇帝からの偽の遺書で「自害せよ」との命を受け取った扶蘇が、ひそかに列島入りしたのは、そうした北方からのルートであり、後漢時代の紀元後2世紀には、豆満江の河口から馬をつれて列島に入ったものもいた。それを受け止めた場所は、龍体の形をした日本列島で最も幅の広い、糸魚川~静岡構造線の北側の海岸で、信濃川(千曲川)の河口のすぐ西だった。彼らは馬の畜牧をできるところを目指し、そこにある独立峰を見つけ出した。

それが、高社山。この名は、ユダヤ教での「コーシャ」に由来し、彼らが、天上の神(北極星=太一)と人間世界の関係性(規範コーシャ)を学ぶ場所がシナゴーグであり、信濃では、多くの集落で営なまれた。紀元後2世後半に九州関西で政治的混乱(倭国大乱)が始まる時、この地域は、縄文からの各部族と渡来人との混血が進み、大陸の横暴な王権とは異なることを自負する原初王権「ニギハヤヒ」を確立していた。

一方、大陸では、後漢の政治体制が急速にほころび出した。漢の皇室と縁戚である公孫度(たく)が遼東を完全に支配下にし、その息子の公孫康は、204年に現在のソウル近郊に帯方郡を作り、それが後漢の統治版図になり、後漢献帝から大いに喜ばれた。

以後、中華帝国の後漢の最東端である帯方郡の動きを、常に見ていたのが、列島で最初の女王となった「卑弥呼」だった。卑弥呼は後漢の献帝が、AD220に曹操の一族に禅譲する形で滅亡後、新たに起きた魏で、どんな政権が生まれるかをを注視し続け、魏の景初2年(AD238)に、列島にある「邪馬台国」の女王として、魏の支配下になっている帯方郡に使者を出した。

魏は、二代目の明帝曹叡(曹操の孫)の時代で、卑弥呼が帯方郡に使者を出した時、遼東の襄平城では、公孫康の息子の公孫淵が、司馬仲達の軍勢によって完全に囲い込まれていた。司馬仲達は、帯方郡に来た倭国の使者を確認した後、明帝曹叡のいる洛陽まで連れて行っている。ここで何が話されたのか、この時の事実を、中華の史書は記録せず、日本の歴史学に至っては、唐の時代から現在に至るも認めずに隠し続けている。この時の年号を、景初3年だといまだに強弁し続けている。それは、唐の太宗時代の629年に、梁書に書かれた年号に基づいた説で、この説の登場によって、唐と倭国の双方が、公孫淵の真実を隠すことに同意したものだった。

この公孫淵の死後に、列島では、ニギハヤヒの出雲と、「ヤマト」を自称する新来の勢力との間で、大戦争が起きた。それが終息したのは司馬仲達の死後だった。その時、大陸ではの司馬仲達の孫の司馬炎が、まず魏を倒して、265年晋を起こして、三国時代の分裂状態を統一したが、その晋は、さらにまた分裂し、都を長江側に移した。これは東晋と呼ばれた。大陸は南北朝の時代になり、大混乱が始まったが、それを再度、統一し、中華帝国の統一王朝ができたのは、300年近く経ったあとで、北周の武人から興きた、隋の文帝楊堅(即位はAD581)のときだった。

636年に書かれた隋書には、600年に列島から来た遣隋使が記載されているにもかかわらず、720年に完成した日本書紀には、この時の事実は全く触れず、隋の二代目の煬帝楊広が即位した後の607年に、小野妹子が洛陽にきたという遣隋使のみが記載されている。

600年の遣隋使が隋の文帝に言ったことは何か?当時の倭王は、その名を「アマタリシヒコ」といい、「天を兄、日を弟」として朝政を行っていると。それを聞いた文帝は不愉快になり、上から目線で、改めさせるように命じている。このことの意味は、それまでの中華皇帝とは異なる意識で、アマタリシヒコが列島に政権を築いていたこと。それまでの中華文化圏なら、皇帝こそ地上世界の唯一の絶対存在で、誰もがその威光に平伏し、それに従うのが始皇帝以来の各地の王たちの姿だったが、この時に遣隋使が言った「アマタリシヒコ」の姿は、これまでとは全く違って、天の星を第一とする、大王の姿が示されていた。

そして二代目煬帝の太原太守だった李淵が、次男の李世民に促されて、618年唐の皇帝を宣言する。長安には大規模の都場建設が始まった。さらに626年には、李世民は、皇太子である兄の李建成を殺害し、父から唐の皇帝位を奪って、第二代皇帝の太宗になった。

その4年後、李世民は、さらに突厥地域の騎馬民族によって、ユーラシアの大王にも推戴された。それが630年の天可汗への即位だった。ここからが太宗李世民の絶頂期だった。それを聞いて、時の倭国の大王だった舒明は、第一回の遣唐使を送った。

問題は、このとき、隋の裴世清の608年の倭国からの帰国に合わせ、列島から洛陽に送られた沙門(倭教研修生)8名は、このとき、中国大陸で何をしていたのか?

大陸で隋書の完成は636年。執筆者は、「諫議太夫」として李世民の信任の篤かった魏徴だったが、その魏徴亡き後、長安の宮廷に、「才人」として姿を見せたのは、まだ14歳の武照だった。絶対権力者である太宗李世民に、武照はいたく気に入れられ、武媚娘と呼ばれだしたが、彼女の存在が唐朝を危うくすると、大いに案じたのが、名宰相の房玄齢だった。

また彼女の登場を予言した書物が、630年ごろ書かれた『推背図』で、そこには、現代にいたる地球の人間社会の行く末が書かれている。

武照は、自分より五歳年下の皇太子の李治を誘惑し、太宗が高句麗遠征の後に崩御すると、李治が唐の三代目の高宗になったが、武照はその皇后になって唐の実権を握り、683年高宗の崩御の後は、女性として初めて中華での絶対権力を確立し、自らどんどん元号を創るだけでなく、国名を周とした。これは690年だが、同年、日本列島では、天武の妻だった持統が即位している。

持統退位後の倭国では唐に倣って、大宝律令の整備を進め、701年それが完成すると翌年、粟田真人らが洛陽に向かって出航したが、持統は、その船を見送った後、崩御した。粟田一行が洛陽につき、武則天に対し、国名を倭から日本にしたいという申し出ると、それを認め、多くの鏡(海獣葡萄鏡)を持たせて帰国させた。そのすぐ後に武照は息を引き取ったが、彼女は自分が皇帝位についた段階で、その王朝を周といったが、周は一代限りとし、自らは唐の三代目高宗の妻として、乾陵に合葬されることを望んだ。彼女は、ヘブライのユダ族のシンボルであるライオン(獅子)でなく、ヨセフ族のユニコーン(カイチ)を好んだ。ちなみに、日本列島では、獅子とユニコーンがセットになっているのが、本来の正しい狛犬の姿で、これは、阿吽(アルファとオメガ)を現している。

そうした狛犬の中で一番古いものは、元伊勢と呼ばれる、宮津の籠神社にある。また、日本で最大の祭りの祇園祭が行われる京都の八坂神社には、見事なカイチ像がある。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。