「ヤマト」はいつから始まった?日本列島での統治体や日本人を語るなら、まずここをはっきりさせよう。

こんにちは。
1万年以上続いた日本列島での縄文時代。6000年前に地球規模で同時多発的な文明の大発生が始まりました。このとき、日本列島での特徴は、何といっても、農業ではなく、翡翠の使用にあります。「日本」の特質を語るのなら、この縄文時代からを言うべきです。これが人類全体にとってどんな特徴があったのかです。それ以前は日本列島はまだ大陸と分かれていなかった。それゆえ明確な「日本(日本人、日本文化)」の特徴の発生を、2万年前のウルム氷期以前と簡単に言ってしまうのは、根本から間違っています。特に、20万年前に誕生したホモサピエンスの中で、日本人にだけ、特別な遺伝子がある、とか言ってしまうのは、1万5千年前に大陸から別れたばかりの列島のサピエンスたちだけに、何者かが遺伝子操作した、というファンタジーを生んでしまうでしょう。列島民の特色とされるD系列遺伝子は、チベット人にも、アンダマン諸島の人間にもあるのです。 
日本列島ができてから大陸とどう違っていたのか、気候や生命環境の違いをとらえた言論が必要です。とくに6000年前に大陸で大規模に始まったのが農業ですが、これが日本列島に入るのは水稲稲作で3000年前からです。ここから「瑞穂の国」の始まりとなります。大陸では周の時代になり、春秋戦国時代には、日本列島にはBC3世紀の青銅器に続いて、紀元前後にようやく鉄器が入って農業生産が爆発的に増えます。これは前漢の終わり頃、王莽時代のことです。このときには貨泉という通貨も列島に持ち込まれましたが、まったく普及しませんでした。
 「農業の開始が遅れ、通貨が全く普及しなかった。」これは、日本人、日本文化、日本の王権を語る上でも極めて重大です。この3000年前と2000年前の間にいたのが老子と孔子です。同じ頃、バビロンの捕囚がありました。特に、孔子は「道、廃れたならば、東海に浮かばん」といい、彼ら大陸の聖人にとって日本列島での住民の生き方が一つの理想形でもあったのです。孔子の時代、中国大陸にはすでに文字も貨幣もあり、王権や利権をめぐって争いが絶えなかった。それゆえ孔子は「天の下は統一されるべし」としたのです。
それを達成したのが秦の始皇帝です。BC219に山東半島の泰山に登り、そこで封禅の儀式ををしました。その直前に3000人の男女を連れて列島に入ったのが徐福です。この徐福は、不老長寿の薬を求めてきたといいますが、真の狙いは何でしょうか?彼らは列島に入って、どうなったのでしょう。華僑系の学者には、徐福こそ初代の人間天皇「神武:カムヤマトイワレビコ」だ、とする人もいますが、この時代に列島内で王権の発生を示すものは見えません。徐福は、始皇帝の軍事制圧や極度の法治主義が、人間の心をどんどん踏みにじることに、嫌気がさしたのではないか?
 それ以前に、そもそも大陸で秦が急速に強大化するのは恵文王の誕生の時です。これは秦が四川を押さえた時からです。そこにはアケメネス朝ペルシャの統治経験が持ち込まれたことがきっかけです。
それがいつだったのか?ここではアレクサンダーの遠征がかかわります。BC327にソグドを制圧したあと、大王はシル川の水源を探して遡上しますがフェルガナからキルギスに入ってしばらく進んだ段階で、後方のバクトリアで反乱がおき、この時点で本隊は引き返し、以後、北インドに入ってポロスと壮絶な戦いになります。そこで、大王が仏教僧に諫められ、内省に入ります。その心の変化は「ギリシャ人の悟り」=「GAND HARA]と呼ばれ、以後、その地がガンダーラとなりました。漢字では、罽賓(ケイヒン)国 です。
 このとき、一部の部隊が引き返さず、そのまま天山を越えて、イシククルに入り、さらにイリ川にでてそこから中国側に入った。その後は河西回廊を進んで、甘粛省の天水にきて、ここで秦と合流した。秦が西から始まり、どんどん東に拡大していったのは、次々と西側の「文明力」を吸収してきたからにほかなりません。
 さて、日本の人間天皇の初代と言われるのが神武ですが、記紀が書かれた当時(8世紀の初め)は、和風諡号の「カム・ヤマト・イワレビコ」でした。「神武」の名は、光仁の時代に近江三船がつけたものです。中国史をひも解くと、「神武」という諡号を付けられている皇帝がいます。それは、北魏が534年に東西に分裂し、さらに東魏から北斉が生まれる過程で大活躍した将軍、高歓につけられたものです。その息子が北斉の初代皇帝になった高澄です。この諡号をつけたのは、蘭陵王で有名な高長恭に自害を命じた、北斉最後の皇帝、後主、高偉でした。この蘭陵王の舞が、日本全国の有力神社で、「舞楽」として演じられていますが、これはいったいなぜでしょうか? これは、日本の皇室と、この蘭陵王との関係を暗示するものです。
 私たちは、「ヤマト」なる言葉、概念が、日本列島にはるか昔から、独自であったと、考える人が多いのですが、縄文時代には、部族は、棲み分けながら共存していました。
ヤマトは、そうした異なる部族が、「一つの家に入る」という概念と考えられますが、これが、列島で、自然発生したとは、考えられません。王権自体が、大量の農業生産とともに生まれ、そこでは階層の世襲化、そして、父系性が始まっています。中国大陸にヤマトの地名はないのか、と探すと、それが中国とカザフの国境のイリ川にあるようです。しかも、ここは、4世紀の弓月国の位置です。
 天山山脈の西側には、ダビデ王からの古代イスラエル王国の物語がありました。ソロモンの死後に南北に分裂し、それぞれがアッシリアと新バビロニアに捕囚され、北側の10支族は「失われた10支族」となり、南側はイラン人のキュロス2世によって解放された。キュロスの造ったアケメネス帝国の建国を手伝ったのが南ユダの人間で、中にはバビロンの貴族になったものもいる。バビロンの貴族はアレクサンダーのバビロン入場に際しては、「あなたこそ、武の神マルドクの化身」として、赤絨毯を敷いて迎え入れた。
 それから、10年後、インドから戻ったアレキサンダーはバビロンで息を引き取りますが、さて、その時の大王の胸の内にはどんな思いが広がっていたのか?「天の下、全てを一つの家にする」ことは到底できなかったが、その思いは語られ続けたのではないか?
 それが、列島にも入ったのではないか?
で、問題です。イリ川にあった「ヤマト」の地籍。これと日本列島での天皇につくられた和風諡号での「ヤマト」の名前や、「ヤマトヒメ」「ヤマトタケル」は、どう関係するのか?です。
一方、魏志の東夷伝倭人条には「邪馬台国」のヒミコの記載。あれは「ヤマト国」ではないか。こう考えると、地球規模でのおおきな物語になってきます。天山からイリ。これがカギです。イリに一度行ってみたい。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。