渦中の日本大学に、「日本精神」とは何か?改めて問いたい。明治時代の「皇道」についても。

日本大学について、ウキペディアで調べると、以下が出てきます。

大日本帝国憲法が発布された近代国家の創成期において、その「国法」を専修する法律学校の設立が急務であると考え、直ちにその設立事業に取り掛かった。1889年(明治22年)10月4日東京府から設立許可を得て、現・日本大学の前身である日本法律学校が誕生した。

これが、終戦後になると、

<目的及び使命>として、

日本大学では、他大学の理念に該当する学則として、以下に「日本大学の目的および使命」というものが
1949年に定められた。また、2007年6月1日に教育理念として自主創造を選定した。

「日本大学は  日本精神にもとづき 道統をたっとび 

  憲章にしたがい  自主創造の気風をやしない 文化の進展をはかり 

 世界平和と人類の福祉とに 寄与することを目的とする

 日本大学は 広く知識を世界にもとめて 深遠な学術を研究し

​ 心身ともに健全な文化人を 育成することを使命とする」


(建学の起源)
当時、明治政府は欧米の列強と条約改正交渉を進めるために新しい法律の整備を急いでいた。
1889年2月11日、明治憲法の公布をきっかけに、欧米諸国の法律だけではなく、古典的な意味合いから 日本独自の法律を教える学校を建設する必要性が高まっていった。これに対応するように、同年10月4日、皇典講究所の校舎を借り受ける形で、現法学部の前身にあたる日本法律学校を設立したことに始まる。


(略歴)
国家神道を確立するべく、皇道を広く国民に教化し、神職資格を与える養成機関として発足した皇典講究所を母体とした。

法体系の編修が急がれ、もともとは講究施設の國學院に国法を創設するつもりであったが、その国法科を日本法律学校とする。

1898年(明治31年)3月に高等専攻科を設置。財団法人となり分離独立し、文理学部の前身となる高等師範科を設置。

1903年(明治36年)に日本大学と改めた。翌年、専門学校令に基づく大学、経済学部と商学部の前身となる商科を設置。

1920年(大正9年)、大学令認可となる。この頃、私立大学の中では初めに女子の入学を認めた。6月、理工学部の前身となる高等工学校を開設。翌年、芸術学部の前身となる美学科を設置。翌月には、歯学部の前身となる歯科医学校を開校。その4年後に医学部の前身となる専門部医学科も設置。昭和に入って、学校教育法の施行へ伴い新学制に移行した。平成には両陛下が祭式に出席した。その後も、学部増設や組織改称を繰り返し、16学部そのうち87学科、20研究科、5付属病院が置かれる。

・・・どうも、戦後の日本国憲法の精神が、まったく、反映されていない大学だったようです。これは、日本大学に限ったことではないでしょう。

日本大学は、終戦後の1949年に、目的及び使命を再定義するときに、

「日本精神にもとづき、道統をたっとび」 とあるのですが、

この時点で、何を、日本精神、そして、道統 としたのでしょう。

戦後の日本国は、アメリカの特別行政自治区という立場で、日本列島での統治機構が始まり、特に天皇の始まりを、表向きは、神武実在説言わなくなり、完全にあいまいにしました。

学会でも、実在の天皇を、継体はまちがいないとか、15代の応神からだ、とか、10代の崇神からだとか、いろんな意見が出されたまま、戦前の、国家神道の信仰体系だけがそのまま続いていたのです。しかし、それは、新しく、雲上人の地位に就いた占領軍GHQ、さらにジャパンハンドラーに指揮される存在になりました。

 その最たるものが、地位協定と、日米合同委員会。

戦前の「皇国日本」の軍事行動では前線に送られた兵士には半島出身のものが多かった。生き残った彼らは、戦後、どんどん列島に入りこみますが、天皇の恩寵というご褒美と、軍の中で言われていた「上官の命令は天皇の命令である」という絶対服従を、「日本(ニッポン)精神」だとして語ります。それしか知らないのですから。

 戦後の日本の統治体は、明治にできた中央集権と、その権力機構をそのまま残しましたが、これを動かす総司令部部は、その枠外にある上部機関の在日米軍となった。この姿とその内部は、枠の中の一般国民には見えないようにした。そして、アメリカに降伏した「戦前の日本の統治者」と、その在日米軍司令部の間に入り込んだ半島出身者には、多くの闇の仕事が回されてきた。

日本大学のいう「日本精神」は、こうした屈辱的な支配構造の中でも、戦前のノスタルジーのままなのでしょう。きっと。 

アカデミズムの立場なら、本来、日本精神のことを、縄文時代にまで遡って本格的に探るべきですが、そうした意識はあったのでしょうか? 

敵に勝つため、といって特攻兵士を送るとき、「天皇のために死ね」といって納得させることを、日本精神だと誤解したままなのでしょう。

明治にできた支配層の皇族・華族・財閥家族は、戦争においては特に前線には行かず、安全な幕内にいて、軍の上層部はとんでもない作戦を練りながら、軍事出動で利益を得る業者と、裏で結託していました。

このとき、天皇を頂点として、そこから離れた人間ほど危険なところに送られ、捨て駒に使われました。しかし、戦後になると、この「(天皇を担ぐ機関のために)死んで来い」というシステム全体の指揮系統が、アメリカの世界戦略の推進者に乗っ取られてしまった。彼らは、巧妙であり、狡猾でした。

経済発展最優先で、アメリカ向けにATMになった列島の統治機構では、またまた戦前の日本精神が使われますが、このとき、別の一方で、戦後の「平和憲法」の精神を金科玉条とする左翼活動も盛んになり、この旗振りもまた、かつての半島生まれの皇国日本人の関係者(子女)でした。日本大学は、明治大学や法政大学と違って、左翼は、ほとんどいなかったのでないでしょうか?

それにしても、上記にある、「道統」とは、何なのでしょう。

「人の道」を指すことは、違いありません。

今回のアメフト事件で、それを指揮した監督らの責任を不問にしようとする姿勢は、「人の道」であるはずはない。 

これは、「忖度」ばかりの官僚たちに、罪をなすりつけようとする、今の政権、安倍・麻生の姿勢と同じです。

日本精神 の 日本(ニホン)って何でしょうか?  私の考えです。

まず、日本の呼称ですが、これを、隋書倭国伝の、「日出処(ところ)の天子」に、起源を求める人間は多いのですが、実は、もっと深い。 

孔子の言う「天下は統一されているのが理想」というのを、秦の始皇帝が実際に実行し、度量衡を統一し、BC219に泰山封禅する。その直前、始皇帝の下を離れた男がいます。徐福です。この人物は、秦が征服した六か国(韓魏趙楚燕斉)の人間を引き連れて日本列島に入り、多くの文明の利器を伝えたが、彼らは、大陸並みの絶対的な政治権力を求めることはなかったでしょう。

なぜなら、孔子が「道が廃れたならば、東に浮かばん」と言って憧れていた地が、州(日本列島)だったからです。国家の支配権をかけて殺し合いが続いた大陸で、人間同士で最も大切な徳目として、孔子が掬い上げたものが「仁」=おもいやり で、それが溢れている、と伝えられており、事実、その通りだったからでした。

以後、大陸や半島から列島に訪れた人間は、たくさんいたでしょう。日本で殺し合いの跡が確認できるのは、紀元前後に鋳造鉄が入り、農業生産が急拡大した時からでしたが、大陸では、後漢の劉秀(光武帝)が王朝を立て直しました。

後漢の終わり、三国時代になり、曹操の死後、後漢最後の皇帝の献帝劉協が、曹丕にその座を譲ることになった時、その関係者には、この列島の民の姿がどう映っていたでしょう。 

漢字表記の「日本」よりも先に、音で、「ニホン」があった。列島には、「仁」に当たる生き方を、「ニ(ni」と呼ぶ人間がいて、その心があふれて、本質「品(ほん)」があると感じた、大陸生まれの教養人が、親密になった列島民とこう言い出した。それを「仁品」と記して、nihonと発音しながら、その意味を共有していた。ここから、後に「仁科(にしな)」の地名が出てくる。

7世紀、ウマヤド(アマタリシヒコ)が、隋の煬帝に送った書簡に、自らが統治する島国を「日出処」と書いたことをもとに、天武が、その意味を「ニホン」の音に重ねて、、漢字表記で「日本」にした。これは、倭国が、中華皇帝に臣従する藩国の位置にあったのとは、完全に異なって、縄文からの伝統をもつ、統治体が存続していることを表明する呼称だった。

明治以来の皇国史観の人間は、西欧を真似て、鹿鳴館騒ぎは大好きで、記紀を文字通り信じ、列島民がすべて、高天原から来たと、自画自賛した。しかし、ここでは、半島が問題になった。

朝鮮総督府の高官を父に持つ、故 馬野周二博士から聞いたのですが、日清日露の頃の日本人の意識は、「玄界灘を超えた世界は、邪の着く世界」と見下しながら、「日本国民とは、神武天皇の赤子だ」と言っていたのです。そして、この「赤子」の元になる天皇こそが崇高で貴種であり、「赤子でない人間」はそのためにイノチを尽くすのは当然だという、差別意識を国家で持った。その姿勢で、満州事変1931年を起こし、さらに、「赤子だからこそ」といって、現地を慰撫して、皇民化して回ったのです。

その皇民化の中で、自らを貴種だと自認する人間は、神の直系だからと言って、周りからそう扱われるように、自分の非を認めません。しかも、自分に責任が及ばないところで、裏で、勝つためなら道義にもとることでも気にせずやれと指示していたのです。731部隊など、その典型です。

下衆の極みです。 

国家権力が興亡するときには、程度の差はあれ、どこでもこういった現象(輩)が出るのでしょうが、日本の場合、明治になって、それまでの貴種とは関係のない人間が「貴種」を装うようになり、英国の階級社会を真似て、貴種優遇の差別を、当然とし、それが、受験制度とともに、戦後の日本社会でも続いていたのです。

ワルです。人間の個人の尊厳を無視するという意味では、金融ワンワールドを作り出した、王族と金融業者です。彼らが本当に変われるかどうかは、私たちが、統治体の主役であると自分で覚醒できるかどうかにかかっています。こちら側に、権力に対する依存心があれば、彼ら生き延び、その心根も変えずに、今後もズル賢く、各国国民をだまし続けるでしょう。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。