まだ、文字情報がないとき、どんな情報交流だったのか?
文字は、6000年前にシュメールで確立し、4000年前には、中国大陸で、漢字が生まれます。
文字は、概念をつくりだす道具でした。
秦の始皇帝が、文字を統一したとき、すでに中国大陸では貨幣経済が発達し、私有財産も生まれていました。
さて、その頃の日本列島は、一体、どうだったのでしょう?
このことを考えながら、私は先週末は、再び、「項羽と劉邦」をDVDで何時間も見ていました。
世界中に散らばる、中国語圏の人間にとって、その文化的アイデンティテイーの核となる皇帝誕生 とその継承の起源の物語です。
中国語で登場人物の会話を聞きながら、劉邦たちが秦の首都の咸陽に入ったり、鴻門の会での危機突破、そして、韓信が漢の大将軍に抜擢されていく場面など確認したのですが、本当よくできたドラマで感動しまくりでした。このドラマでは、2200年前の大陸の空気がよく分かります。すでに文字もあり、鉄器も普及し、人間社会での、権威も尊厳も十分に意識されていました。
問題は、そのときの日本列島です。どのような手段で情報が交換され、そこでは、果たして、王権が生まれていたのかどうかです。
徐福が始皇帝の下を離れて以来、日本列島の西側に、どんどん漢字文化圏の人間が入りこみますが、 では、この音での情報交流する人間は、その流れに、どう対抗していたのでしょう。
これが、重要だとは思いませんか?
今回、5月の北信濃ヌナトツアーでは、中野市博物館に加え、木島平で、渦巻き紋鉄剣を見学したのですが、これが、朝鮮半島南部の伽耶地域に、特別に、注文して造られたものだと、知りました。
北信濃に、半島にいる先進技術をもつ勢力に、この鉄剣を特別注文をするだけの力がもった存在がいたのです。
さて、それは何か?
それが、どのようにして、今の皇室の権威に繋がっているか、ここを研究しました。
このとき、高社山の北側(裏側)にある、飯山の北竜湖と、糸魚川明星山(ヒスイ鉱石の塊)の下にある、高浪池の関係が重要でした。
この成果は、次回6月17日(土)に東京三田で開かれる研究会「地球史から見た天皇誕生」の中で、解説いたします。