1) 私の予定。
8月28日(土)、京都で、ジャパネスク。
9月11日(土)、東京で、皆神塾。
10月3日(日)、中野で、上原果樹園のブドウ収穫祭に参加。
中野市は、キノコの本場のみならず、フルーツ王国です。
先日も、新品種のブドウ、シャイン・マスカットがTVで紹介されていました。
昨年、私が参加し感激した上原果樹園の収穫祭が、今年は10月3日にあります。
この機会に、親しい方にも、ご案内したい。
以下には、昨年の様子があります。私の家族が、写っています。
http://olympiariei.com/
2) 2004年秋から藤原不比等を調べてきて、ようやく(私にとっての)真実が見えました。
この人の父親、すなわち、鎌足とは何者か?
これがすべてです。
日本書紀によれば、鎌足は643年にいきなり登場し、倭国政界で一気に神祇官になります。
そして、軽皇子(後の孝徳)は頼りないとして、中大兄と組む決意をし、ここから、
入鹿殺害になります。
その鎌足は、晩年、668年の高句麗滅亡後に、病に苦しみます。
そのとき、山科にあった私邸に、妻の鏡女王が釈迦三尊を安置し、病気平癒を祈ります。
これが、現代につながる、奈良興福寺の起源です。
そのことを、今に残す呼び名が、山階寺(やましなてら)です。
この山階の呼称は幕末に伏見家が分家するとき、ここからとって「山階」宮がうまれています。
黒田家に嫁いだ紀宮さんが今、勤めているのが山階鳥類研究所ですが、この山階宮にゆかり
のものです。また起源になった、山科(京都)の勧修寺住職の筑波さんは、ここの出です。
山階寺は奈良興福寺になる前、一時、飛鳥にあり厩坂寺(うまやさかでら)と呼ばれました。
この時期は壬申の乱の直後で、大海人皇子(天武)が天皇を名乗り、太一を祭ったときでした。
天武の妻はアマテラスを生み出し、伊勢神宮を建てた鵜野ササラ(後の持統)ですが、この人
の父が中大兄(天智天皇)でした。
この、「厩」、「坂」は、何を意味するのでしょう。
奈良の興福寺は、710年の平城京の建都とともに建立されるのですが、
ここに、不比等は、阿修羅像を収めました。
この像は三人の人物を一体にして表現していますが、一体、何を意味するのでしょう。
平城京は、古事記の編纂の最後の段階で、作られました。
その古事記は、厩戸皇子(聖徳太子)が登場する直前で、終わっています。
不比等はきっと、父鎌足の最晩年の苦悩の深層(真相)を、この阿修羅像の姿に
表現したのではないか、と考えています。
鎌足は、そして、不比等は、何を悩んだのか?
著書をお待ちください。
お知らせ。興福寺の阿修羅像の意味。
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この記事を書いた人
新井信介
1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。