古代の話題です。
日本に、いつ、キリスト教が入ったのか、ということです。
それも、イエズス会のザビエル以前に、その痕跡はないだろうかと。
もしかしたら、天皇ができる前に、イエスのことを、
話し伝える人間が、日本列島に来ていたのではないか? と。
たとえば、薩摩藩は、なぜ、「丸に十字」を家紋にするのか?
この薩摩の島津と、大友宗麟が戦争を始めたのは、ザビエルが帰ったあとでした。
いや、そもそも、この「十字」が、キリストのシンボルに成ったのは、いつか?
そこから、かんがえると、いろいろ見えてくるはず。
聖徳太子は、なぜ、幼少時に、厩戸皇子 なんて、よばれたのか? も。
十字架については、その答えは、はっきりしています。
ローマ帝国皇帝で、初めてキリスト教の信者に成ったのが、
コンスタンチヌス帝で、これが、313年。
この皇帝が、ニケーアで宗教会議を開いて、「三位一体」を決めました。
しかし、そのときには、イエスが死んでから300年近く経っています。
この人物の生き様を、死後、救世主(ヘブライ語で、メシア。ギリシャ語でキリスト)
と呼んだ人たちは、 それまで、何を、イエスのシンボルにしたのでしょう。
イエスは、ユダヤ人でしたが、彼を救世主とする考えは、
部族・民族・血統を超えて、広がりを見せます。
しかし、それに、ローマは、弾圧を加えます。
そのとき、信者たちは、その活動を、地下と、帝国外に求めます。
2世紀から3世紀の前半です。
この時代のイエスのシンボルは、 サカナでした。
ギリシャ語で、 ΙΧΘΥΣ。
ちょうど、この時期、日本では、銅鐸がどんどん巨大化し、
さらに、多くの装飾がつけられるようになりました。
そして、日本では、「国譲り」のあと、
銅鐸が、いっせいに、消えます。
代わりに、前方後円墳 と 銅鏡 が広まります。
しかし、それ以前も以後も、継続してあったのが、
勾玉でした。
一方、「三位一体」が決定した後、「十字架」がイエスの神聖さのシンボルとなり、
さらに、『新約聖書』が纏められ、ラテン語に翻訳されたあと、
5世紀に入ってから、エルサレムに、「十字架」が、掲げられます。
その「十字架」が、ペルシャに持ち出された時期があります。
613年、ペルシャのホスロー2世です。
それを取り戻したのは、ビザンチン皇帝ヘラクレイオスです。
このときのアジアは、隋の煬帝と、 倭国の聖徳太子の時代です。
この間、どんな物語があったのでしょう。
これらは、すべて、大化改新の前に、起きているのです。
「三位一体」が成立する以前のキリスト教と、古代出雲の銅鐸
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この記事を書いた人
新井信介
1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。