こんにちは、
その1) 「被爆スリッパ」
放射能の可視化。 森住卓さん のフォト。
http://mphoto.sblo.jp/category/1117537-1.html から転載します。
「放射能汚染の実態を映像化するにはどうしたらよいか?事故直後から構想を考えてきた。いろいろ試してきた。これまで、ロールフィルムをホットスポットに長時間おいて露光させたり、オートラジオグラフでの映像化などなど。しかし、私は写真家なのでオートラジオグラフでは納得できなかった。
感剤に放射線を焼き付けることにこだわった。しかし、この映像化はいろいろな制約があってオートラジオグラフと同じくらい大変な労力と時間がかかる。
でも、一つ成功した。
この映像は浪江の警戒区域に落ちていたスリッパである。
使用したフィルムはコダックのTR-Xの大判の8X10フィルムだ。要するに密着焼きと同じ手法だ。現像は念のため2倍の増感現像をした。ネガを印画紙に焼き付けた状態で見せるため白黒反転させた。放射線が輝いて見える。私たちの体内に入って細胞内のDNAを破壊していく姿を想像して欲しい。恐ろしい光景だ。」
その2) 明日、式年遷宮の本番です。 内宮で、深夜に「ご神体」が新居に移ります。 5日には、外宮。
690年に、第一回目の式年遷宮。
では、それ以前までと、どう違ったのか?
答え。
アマテラスは、このときの儀式のあとに、 創作された。
天武時代には、アマテラスは、まだ、その概念ができていない。
天武時代に祀られていたのは、<太一>だった。 これは、始皇帝のときから、中華皇帝が祀るものだった。
690年は、大陸では、
太宗李世民の才人(側室)から、高宗李治の皇后となった則天武后が、 「推背図」に基づいた大運経を使って、 女性の皇帝の登場を予言させたあと、自らが即位した年。
この年、日本列島では、天武の后だったウノササラが伊勢にいき、自らが、日本国天皇に即位した。
674年の時点で、東アジアには、「天皇」を名乗るものが、二人いた。
高宗李治 と、 天渟中原瀛真人天皇(天武=大海人皇子)。
このとき、半島では、新羅文武王が百済・高句麗の遺臣を吸収し、唐の勢力を排除していた。
新羅文武王が死去し、 唐と日本が、直接対峙し出し、その緊張がもっとも高まったときが、683年。
能の「海人」では、この年に、不比等が「倭国制定」を報告しに唐に渡り、妹を嫁がせたとしている。
そのときの褒美の一つが、「面向不敗の珠」。平城京の完成時(710)には、興福寺に預けられた。
これが、琵琶湖の竹生島に、奉納・安置されたのが、聖武即位の年(724)。
その3) 昨日、友人と話しました。今、日本人は、「天武の呪い」を受けいている、と。
記紀の神話編で、スサノオが、ヤマタノオロチの体から取り出したのが、「草薙の剣」。
ヤマトタケルが死ぬ前に、ミヤヅヒメに預けられ、それが、熱田に祭られていたと。
しかし、高句麗が滅亡し、天智が即位した668年には、熱田神宮から「草薙の剣」が盗まれた。
天武が、いよいよ臨終というとき(元号で「朱鳥」の期間)に、「草薙の剣」は熱田に、戻った。
熱田はそれを喜び、「オホホ神事」が始まり、今でも続いている。
日本書紀は、 「草薙の剣」は天武に祟った、と記します。
天武が祀った「太一」が、 持統によって「アマテラス」に変えられたのが、
690年の第一回の式年遷宮の真の意味。
今の日本国(日本という「統治体」)は、 天武の呪い が、最大値になっている。
戦争屋を押さえ込んだ、これからがクライマックスだ。