おようさん。 ようやく、冬らしくなってきた。
昨日、私の郷里の信州中野で、「高社山を世界に発信する会」の設立総会が有りました。
参加者の渡辺さんが、さっそく、以下をあげていました。
高社山には、 「タカヤシロ」 、「高井富士」 の名も有ります。
日本海性気候と 内陸性気候の端境の山で、 西麓に、千曲川が流れ、柳沢遺跡があります。
この地方のことは、通説では、史書には、飛鳥時代になるまで、出てこないとされるのですが、
天武が、壬申の乱の前に、多くの騎馬を牧畜したところです。
「高社山」の、「高社(コウシャ)」の語源は、古代朝鮮語「コシ」から来ています。 これは、高社山の手前の「越(コシ)山」に、その名を残しています。この「コシ」は、日本では、最初に漢字では、「高志」と書かれ、後に、「越」と表記されました。
「コシ」(越・高志)は、奈良にできたヤマト朝廷に対し、時に対立する特別地域でした。4世紀のヤマトタケルのときは、北信濃にはいって、ヤマトタケルは、白鹿に殺されそうになります。
そしてヤマトタケルは信濃を抜けた後、美濃に出て、北近江の伊吹山で、山神のイノシシの毒気に中ります。伊吹山は、「コシ」の勢力下にありました。
「コシ」は、このあとに、ホムダワケ(応神)の誕生から即位の場で登場します。武内宿禰が宇治川で忍熊王を討ち、琵琶湖で自害させた後、向かった地が、若狭湾の「敦賀」の地ですが、この部分を、古事記では「於高志前之角鹿」と、敦賀の地が、ヤマト朝廷側から見て、「高志」の最前線であったことを明確に記しています。
「高志」とは、何か?
これを、暗示するのは、古事記の神代編のスサノオのヤマタノオロチ退治の場面です。
記紀神話の中で、スサノオが、ヤマタノオロチを退治するのですが、このヤマタノオロチは、日本書紀では「八岐大蛇」ですが、古事記では、 「高志之八俣遠呂知」 と、わざわざ「高志之(コシノ)」 と、書いているのです。
この「高志」が、何なのか? どこなのか? 日本海側であるのは、間違いないのですが、これが、 「コシ」として、古代朝鮮語(場合によっては、もっと西のペルシャやトルコ)からきている音の地名があったところに、 漢字の意味で「高い志」の表記を、3世紀以後の歴史を踏まえ、7世紀には、奈良の朝廷に容易に屈服しなかった特殊地域だと、認識されていたのです。
「八俣(やまた)」とは、何か?
それを、スサノオが、退治したとは?
以前、本欄で紹介しましたが、 北信濃にある、最古の前方後円墳である高遠山古墳(300年前後)や、森将軍塚古墳(340年頃)は、 前方部と後方部の中軸が、わざとずらして、築造されているのです。第10代の崇神以後の、倭国の大和政権を、認めながらも、本格的には従っていなかったことを、意味します。
そして、
日本書紀には、570年に、欽明(ヒロニワ)の時代に、 高麗からの使いが、「越(コシ)」に漂着し、それを、越に派遣されていた郡司は無視していたが、地元の人間が、大王のヒロニワに報告すると、欽明は、飾り船を派遣して、迎えるという、特別待遇をしました。このあと、欽明は、新羅に使いを出し、その使者の帰国をまたずに、崩御しました。 この欽明のときに、日本に仏教が伝わったことになっています。
一見、日本国成立(これは、670年か、701年)に、全く関係なかったように見える北信濃ですが、実は大変、重要な、役割を果たしました。
そのときのシンボルが、高社山なのです。
ぜひ、閲覧者のみなさんも、仲間になってください。この山のすぐ麓で、 唱歌「ふるさと」が生まれているのです。