韓国TVドラマの「淵蓋蘇文」、今、ネットで無料で見れます。
映画の冒頭は、645年の遼河沿いの安士城での、唐の太宗李世民との対決シーンです。
ここで軍事の天才として淵蓋蘇文が登場します。そのあと生い立ちの場面では隋の文帝(楊堅)
の時代(604年没)に10歳の若者として登場しますがこれは早すぎます。 冒頭シーンでは
50歳代となってしまいます。実際はそれよりも30歳ほど若かいはずで、622年生まれでしょう。
645年は、日本ではあの入鹿が殺された年で、この年に、高句麗と唐が激突していたのです。
淵蓋蘇文の実際の出生は史書では不明で、母が高貴ではないとされているのですが、
映画の中では、すでに50歳を超えた高句麗貴族の夫婦の間に生まれたことにしています。
高句麗は668年に滅亡しますが、その3年前の665年に記録上、淵蓋蘇文が亡くなっています。
私の研究の結果は、小林恵子先生と同じく、日本に亡命し、大海人皇子、つまり、天武に
なっています。
映画の中で、高句麗の神の使いとして、三本足の烏が出ます。これはヤタカラスです。
扶余などの高句麗の遺跡で確認された間違いないシンボルで、これが、日本に入っています。
高句麗は、紀元前37年に朱蒙が建国して以来、ユーラシア北方のステップルートを通じて、
ソグディアナ・ペルシャ・コーカサス地方と盛んに行き来がありました。
重要なのは6世紀末、隋が大陸を統一するとそれに対抗するように高句麗が急速に勢力を拡大し、
それまでの中華皇帝の権威を完全に否定し出したことです。映画でのこの設定は正しいものです。
しかし、劇中では、何で7世紀になって、急速に拡大し、中華皇帝の権威を否定できたのか、
その動機が明確ではありません。なんでも、中華皇帝が「始皇帝以来の天子」というのに対し、
自分達は、「5000年前の檀君、さらに3000年前の蚩尤以来の天孫族だ」と主張しています。
ここは、だいぶ無理があるな、というのが私の感想です。
隋からの冊封を拒否し、隋の煬帝から度重なる遠征を受けながら、これを跳ね返し、さらに、
中国が唐になっても、今度は太宗李世民の攻撃を退け、太宗の死後、高宗の時代になって、
唐が全軍事力をここに傾注して、ようやく、高句麗を滅亡に追い込んだのです。
日本列島と高句麗は、朝鮮半島を経由せず、日本海を直接、渡海して多くの交流がありました。
高句麗は「国譲り」後の倭国政権とは対立し、むしろ越と信濃が密接に往来していました。
ここが、騎馬・鉄器、そして仏教の伝来ルートでした。
そのときに、最も重要な交易ルートが信濃川(千曲川)で、高句麗の人間にとって、
平和の地に来た安堵の目印の山が、わが故郷の名山、高社山(たかやしろ)でした。
高句麗王朝の関係者は、姓には、「高」がつきます。
高句麗滅亡後に日本に移住した高麗若光は、秩父の高麗神社に祭られていますが、
この「淵蓋蘇文」の足跡については、日本書紀では見事に、消されています。
ただ、名古屋の熱田神宮に、「草薙の剣が天武に祟った」とのみ伝えられています。
これは、一体、何を意味しているのでしょうか。