NHK朝のニュースでもやっていましたが、曹操の白磁の壺が見つかったと。以下に写真。
曹操については、芸能界随一の三国志通の吉川晃司が、曹操の墓を訪ねています。
https://www.youtube.com/watch?v=2YJViC5shKU
曹操は196年に後漢の献帝劉協を抱えこんで許に連れていき、自らは丞相・魏王のまま生涯を閉じた。
実質的に最高実力者ながら最期まで皇帝にはならなかったが、息子の曹丕は違った。魏の皇帝になり、献帝を山陽公にした。
ここで問題。この間、卑弥呼は日本列島のどこにいて何をしていたのか?
魏志では、卑弥呼が景初2年(238年)に帯方郡へ使者難升米を送ると、そのまま郡の吏に連れられて洛陽まで行き、魏の皇帝と謁見しているのですが、遼東地域は公孫淵の支配地域で、しかも司馬懿との戦闘中というより、襄平で籠城している最中でした。
しかし、629年に編纂された梁書では「至魏景初三年(239年)公孫淵誅後 卑彌呼始遣使朝貢」とし、公孫淵の死後に卑弥呼は初めて使者を出した、としています。
卑弥呼と公孫淵の関係は、中国の正史編纂においても「何かの重大問題」があったことが分かります。
因みに日本書紀では、卑弥呼のこの記事について梁書に習って年代を景初3年とし、しかも、わざと神功皇后の条に書き込んでいます。これは神功皇后の生存年代を卑弥呼時代に重ねる作為そのものでした。
また三国史記・新羅本記には、阿達羅尼師今「二十年(173年)夏五月 倭女王卑彌乎 遣使來聘」の記載があります。
公孫淵とは何者か?この人物は魏の曹丕が226年に死んで曹叡(明帝)が即位した2年後の228年に、強引に叔父から遼東太守の地位を奪いました。公孫淵は204年に帯方郡をつくった公孫康の息子とされていますが、生年がはっきりしません。私の考えでは210年生まれです。
208年の赤壁の戦いで曹操が呉と蜀の連合軍に負けたことは、献帝に対し、曹操自身は大いに面目を失ったはずです。このとき公孫康は曹操を支えていたのは間違いなく、このころに公孫淵が生まれたのではないか、と考えられるのです。公孫淵には出生の秘密がある。これが私の見解です。
因みに、新撰姓氏録では、公孫淵の子孫は、赤添氏となっています。
曹操曹丕の子孫で、応神時代に阿智王と一緒に列島に入ったのが七姓漢人で、その中に高向氏がいて、高向玄理は、608年に来た裴世清の帰国に際し、仏教研修生として隋に渡っています。そして、隋の滅亡から唐の成立、李世民の即位まで、全て大陸側で実見しています。
日本列島の古代は、孔子や始皇帝の時代から、中華皇帝を軸とする東アジアの政治的ダイナミズムのなかで動いてきましたが、それを、いかに、列島だけの「香しい物語」にするか、これが持統と不比等の狙いでした。そうした画策の下に、皇祖神アマテラスと高天原神話が誕生しています。
以下、参考まで。
【中国/考古学】曹操の墓と見られる遺跡で出土のつぼ 最古の白磁か 「三国志」に登場する古代中国の英雄、曹操の墓とみられる3世紀の遺跡から出土したつぼが、この時代には存在しないとされてきた「白磁」の特徴を持っていることが分かり、調査に当たった東京国立博物館の研究チームは、これまでの発見例を300年以上さかのぼる最古の白磁だとしています。
つぼは2009年(平成21年)に中国中部 河南省の墓から出土しました。この墓は出土品の特徴などから3世紀に作られたと考えられ、中国政府の研究機関は「三国志」に登場する英雄、曹操の墓だとしています。
見つかったつぼは、高さ13.4センチ、口径8.7センチの大きさで、去年12月、東京国立博物館の研究チームが現地で詳しく調べたところ、表面に透明な釉薬がかけられているうえ、それが高温で焼き上げられてガラス質に変化しているなど、白磁の特徴を備えていることが確認されました。研究チームによりますと、白磁はこれまで中国の6世紀末の遺跡から出土したものが最も古いとされてきましたが、今回見つかったつぼは墓が作られた時の副葬品と考えられることから、それを300年以上さかのぼるとしています。
東京国立博物館の市元塁主任研究員は「白磁が歴史上、どう位置づけられるのか大変興味深い。三国志の時代は戦乱が続き、文化的、美術的には注目されてこなかった時期で、白磁が見つかったことで、より等身大の三国志像が描かれるようになると思います」と話しています。
このつぼは、ことし7月から東京国立博物館で開かれる特別展「三国志」で展示される予定です。
曹操の墓;墓の場所は諸説あり、長く謎とされてきたが、2009年に河南省安陽市で発掘調査が行われ、中国政府の研究機関が曹操の墓だとした。根拠としては、出土品や墓の遺構が後漢から三国時代の特徴を持っていることや、墓全体の面積が740平方メートルあり、その規模から王などの権力者のものであること、唐代にかけての複数の文字資料に曹操の墓であることを示す記述があることなどを挙げている。ここから曹操を指すとされる「魏武王」の文字が刻まれた石の板が出土している。
白磁とは;白色の粘土に灰を主な成分とする透明の釉薬をかけて1300度程度の高温で焼き上げられた磁器。中国が起源とされ、明代には景徳鎮で盛んに作られて世界に広まり、日本では江戸時代初期に生産が始まった有田焼が最初とされている。磁器の製造そのものは殷の時代の紀元前14世紀までさかのぼりますが、白磁は粘土から不純物を取り除いたり釉薬を精製したりといった、白い色に仕上げるための作業が必要だという。