二年前は大雪だった国栖奏も今年は快晴。「朱鳥」が復活したぞ!

吉野の里を旧暦672年春節から14日目、大海人が鵜野を連れて伊勢にむかって動き出す。
そのとき、吉野の国栖の村人が無事を祈って歌舞を奏上する。壬申の乱の始まりです。
その前、大友皇子の追っ手が吉野の村中を隅々探すとき、あるときは船の中に隠れ、それでも危ないとなった時、村人しか知らない吉野川の崖の淵の奥にある、秘密の窪みに、大海人と鵜野讃良を隠した。
その場所が、壬申の乱に勝利した後、浄御原神社となった。
大海人は673年に飛鳥で即位し、吉野の国栖人たちにあのときの舞と音楽を今後も伝えるように命じた。それは宮中でも南北朝の動乱まで続ていたが、宮中では一旦途絶えてしまった。
明治10年、明治政府は吉野の里人に残された国栖奏を参考に、再び宮中で雅楽師たちに演じさせる手配した。意識していたのは、天武の「見果てぬ夢」でした。
明治政府のその理解は、八紘一宇につながっていくのですが、どうもそこには大きな間違いがありました。本当に、大海人が望んだものは、何だったのか、です。

縄文からのイノチの響き「ヌナト」と、シュメール・ヘブライの「文明性」を「太一」の下に、列島から世界に出す。
息づくイノチの真実から離れず、列島発で、大陸をも含んだ「天の下」に、「大きな家をつくる」。
しかしそれには、同じく「太一」の顕現者だとする中華皇帝、すなわち、唐の高宗との戦いが避けられなかった。
こんな緊迫した中、683年末高宗が崩御。天武は日本書紀では684年から病に伏せます。
読経が続けられる中、天武は「無端子」とは何か、とナゾナゾを出します。解いたのは高市皇子でした。
そして、686年7月20日から崩御する9月9日までの期間に「朱鳥」という元号がつけられた。
この期間に、書紀によれば、草薙剣が戻り、これが天武に祟ったといって、すぐに熱田神宮に返された。
さて、この壬申の乱から、この「朱鳥」までに一体、何があったのか?
ここが、日本史の中では、本当に大きな秘密があります。

日本書紀では、天武崩御の一か月後、大津皇子が死に、以後、正式に即位せず「称制」となります。

この期間は、天武の殯宮を二年余りの異例の長期にわたって営んでいたのですが、その最愛の子草壁皇子が皇位を継ぐ前、689年に急死してしまった。鵜野は悲しみを乗り越えて翌年即位し(持統)、伊勢に行きます。これを第一回目の式年遷宮と国学者(神道家)たちは言います。

そして信濃の神(諏訪とミズチ)に挨拶をした後、持統(鵜野)は30回以上も吉野に通い、
694年に藤原京が完成すると、持統は天武に挽歌を送りました。

「明日香の 清御原(きよみはら)の宮に 天の下 知(し)ろしめしし 
やすみしし 我が大君 高(たか)光る 日の皇子 いかさまに 思ほしめせか 
神風(かむかぜ)の 伊勢の国は 沖つ藻(も)も 靡(なび)かふ波に 潮気(しほけ)のみ 
香(かを)れる国に 味凝(うまごり) あやにともしき 高光る 日の御子(万2-162)」

今回、私にとって吉野の国栖の訪問は、二度目でした。
こんなに晴れたことはないと地元の方も言いますが、私には、今日こそ、閉じ込められた「天武の思い=燃ゆる火」が解放された日だと確信しました。

「燃ゆる火も 取りて包みて袋には 入ると言はずや面智男雲(万2-160)」

天武は列島を離れたウマヤドが高句麗で儲けた最後の実子でした(ウマヤドに殯の記事がない)。
この二人の正体を隠すのが、記紀の大きな目的の一つでした。
不比等は持統の孫として、軽皇子をたてて即位させ、ここには犬養三千代を乳母として付けた。
701年に大宝律令が完成すると、翌年、粟田真人を周の武則天の下に送り、国名「日本国」の承認を求めます。このときの船の出港を見送ったあと、上皇となっていた鵜野は崩御した。
703年、武則天は粟田真人を迎えると、国名をすんなり了承するとともに、大量の海獣葡萄鏡を持たせた。そして、そのあと今度は武則天が崩御した。

粟田真人の帰国のあと、不比等は古事記の神代編を構想・創作に入ります。このとき各豪族に対し、古文書回収令をだす。そして、自分自身を「天の下すべて」ではなく、「日本列島のすべて」に屋根をかけたとして、「アメノコヤネ」と自認するようになります。

そうして、不比等が自らが創り出した古事記「神代編」で高天原を設定し、その中でアマテラスとスサノオによる「誓約」で、8柱の神(男5、女3)が生まれたとし、このときの長男なっているのが、アメノオシホミミです。
643年に宇治の木幡に現れた「天神」にこの名をつけ、秩父に銅が出てきた708年(和銅元年)には
、宇佐の鷹居社でこの名の神が祭られ、この年に即位した元明天皇の大嘗祭では、犬養三千代に「橘」姓が与えられています。
同時に、古事記の中の「天の岩戸開き」も「国産み」「国譲り」も構想された。
そして天武の死、さらに、持統の即位によって封じこめられることになった、列島発の「大業」。これが信濃での「天の岩戸・隠し」、すなわち、「戸隠」の言葉に隠された意味です。

2月24日、東京では、光武帝の「金印」から、日本列島に記紀ができるまでの壮大なドラマをユーラシアの視点で、解説します。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。