https://blogos.com/article/370859/ から。
東京大学の入学式が4月12日に行われ、来賓として東京大学名誉教授の上野千鶴子先生が読まれた祝辞が大いに話題になっている(本日の時点でも)。医学部入試不正問題を皮切りに、東京大学の本年の女子入学生が昨年より減って18.1%となったこと、東大生の過去の性的暴行事件などが取り上げられ、会場にいた「祝われるべき立場」の約3000人の新入生とその関係の方々は驚かれたことだろう。祝辞の最中からすでに怒りや嘆きのツイートが出回り、祝辞の全文テキストはすぐに東京大学のHPに掲載されたため、それはSNSを通じてさらに拡散し賛否両論の議論が巻き起こった。それにより、入学式の現場にいなかった方の中にも、辛い過去を思い出したり、「放っておいて欲しい」と感じた方がいる。
この祝辞の素晴らしい部分は後半なので、そこから引用しておく。
……私が学生だったころ、女性学という学問はこの世にありませんでした。なかったから、作りました。女性学は大学の外で生まれて、大学の中に参入しました。4半世紀前、私が東京大学に赴任したとき、私は文学部で3人目の女性教員でした。……今日東京大学では、主婦の研究でも、少女マンガの研究でもセクシュアリティの研究でも学位がとれますが、それは私たちが新しい分野に取り組んで、闘ってきたからです。そして私を突き動かしてきたのは、あくことなき好奇心と、社会の不公正に対する怒りでした。
学問にもベンチャーがあります。衰退していく学問に対して、あたらしく勃興していく学問があります。女性学はベンチャーでした。女性学にかぎらず、環境学、情報学、障害学などさまざまな新しい分野が生まれました。時代の変化がそれを求めたからです。
(中略)
あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、冒頭で不正入試に触れたとおり、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください。……
あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください。女性学を生んだのはフェミニズムという女性運動ですが、フェミニズムはけっして女も男のようにふるまいたいとか、弱者が強者になりたいという思想ではありません。フェミニズムは弱者が弱者のままで尊重されることを求める思想です。
(中略)
……大学で学ぶ価値とは、すでにある知を身につけることではなく、これまで誰も見たことのない知を生み出すための知を身に付けることだと、わたしは確信しています。知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です。ようこそ、東京大学へ。
・・・・・
歴代の権力者たちが、自らの支配のために、隠してきたものを探りあてる。
これが、「想像と創造」ができる人間が、社会に立ち向かうときの本来の智慧です。
明治からの国家の教育は、奴隷の本質を教えず、自分の意のままになる家畜の増産でした。
これは、やせた子豚・子牛を、市場で高く売れる商品に変える、「肥育」そのものでした。
人間としての意味とその自覚、すなわち、「意志」と「知性」を教えない。人間であることとは何か?人間の集合体である、社会とは何か? その中での、権力とは何か? 絶対者とは何か?
これを、全く考えさせないで、人間を、支配者にとっての、道具や消耗品にするのみ。しかも、その組織の運営者や権力者に、まるで責任感も教養もない。惰性の中で、権力をより酷く行使し続ける。
私が考える「サンクチュアリー」は、何も、生物学的なことだけじゃない。人間個々人の意識の「マトリックスからの脱出」でもあります。自分が属している、日本語の言語空間がどのようにして出来上がり、どんな性質と機能があり、今、現在は、どんな意思で運営されているのか? これを知ろうとすることから、人間としての、自律が始まります。
自分で、自分の世界を創る。…奴隷になってたまるか、という人間は日本列島にはたくさんいたが、自ら進んで、家畜になる人間を、巧妙に育ててきたのが、明治以来の近代日本です。小泉以来の竹中路線は、その家畜を、奴隷にしようとしているもの。しかも、放射能づけのままです。
おいおい、俺たちは、この日本列島での人間社会にあっても、「有権者」なんだぞ。