人類史の中で、日本列島にできた王権で、何が特別なのか?
きちんと、考えたことがありますか?
太古から現代につながる王権となっているのが、天皇の存在
といいますが、その太古って、いったいいつのこと?
何回もいいますが、第10代崇神が「実在のハツクニシラス」です。
この人物がいつの時代の人間か、これをいかに隠すか?
この命題に、答えたのが、鎌足の息子、不比等です。
参考になるのは、大化改新のあと、「国の博士」になったのが、
高向玄理と僧旻。いずれも曹操の末裔で、第15代応神のときに、
日本列島に入ってきた。
応神(ホムダワケ)はウマヤド誕生の前の568年に大神比義に
よって「八幡神」とされましたが、この人物の列島での治世には、
大陸で皇帝を出した名家の人間がぞくぞく集結するほど、「中華」
の基準からも認められる存在だった、ということ。
その前の14代仲哀の時代、弓月国(現在の新疆イリ地方)の功満王
が倭国に使者を出した。弓月国は二世皇帝胡亥の子孫が建てた。
その子の融通王は5世紀初め仁徳時代に20万人を連れて日本列島に
入植し、河内に巨大古墳を造る時に、養蚕と機織りを広めている。
その子孫がウマヤドを助け、国宝の弥勒菩薩像を安置するために
広隆寺を建てた秦河勝で、今の静岡県の川勝知事のご先祖です。
明治政府が創り出した皇国史観は、アヘン戦争で負けた清を蔑みま
した。康煕・雍正・乾隆の偉大な文明はイギリスが撒いたアヘンと
宗教で壊されたのです。私が師事した歴史工学の馬野周二博士は「
中国文明は唐で終った」といい、さらに「日本書紀は真実だ」とも
言っていましたが、縄文に対する理解で意見が合わなくなり、進ん
で「自己破門」となりました。その前1988年6月、馬野博士を中国
社会科学院との文明論対話にお連れしたのがいい思い出です。
博士には中国政府から乾隆帝の別荘が手配され、ご満悦でしたが。
一方、「うちの先祖が天皇を創った」と言っていた金井敏伯翁
から出された課題が、「縄文からの連続性を調べよ」でした。
4000年前から始まった漢字文化と文明の利器をもつ大陸の人間を、
列島民が何を基準にして取捨選別しながら取入れ、吸収したのか?
6000年前、シュメールで大規模に農業が始まった時、日本列島では
翡翠を持ち合った。前者は暦を造って収穫を増やし、自然の豊かさを
切り取る形で人間社会の「富」を築いた、その分配にあたって「血統」
が重視され「貴族」が生まれた。このときの血統の意味も、重大です。
日本列島での「富」の発生と、その分配での優先権の確定。すなわち
「貴族」層はいつ生まれたのか?この視点こそ「天皇」の起源を解き
明かすカギです。今の神社関係者は、何も答えられないでしょう。
あと、魏志東夷伝倭人条にある、「帯方郡への卑弥呼の送使」。
陳寿が書いた原書「景初2年(238年)」が間違いで、唐の太宗李世民
の時代に纏められた梁書の「景初3年(239年)」が正しいとしてきた
のが日本の歴史学会で、戦後になっても、誰も疑問を出さなかった。
私は断言します。これは、曹操・曹丕・曹叡それに司馬懿と、日本列島
での天皇誕生の関係を判っている人間による隠蔽工作です。これが唐代
からあったのです。もうこんな馬鹿げたインチキは終わりにしましょう。
さらに長野県大町には最も小さな国宝建築の仁科神明宮があります。
国宝になったその理由は、伊勢神宮と同じ造りだからと。「仁科」とは
何か?なぜ、信濃の大町だったのか?日本会議は全く知らないでしょう。