こんにちは。今日は2月の最後の日。
昨夜のヴェトナム料理、美味しかったでしょうね。トラちゃんとジョンウン君が並んで舌鼓。
虎「世界中の富豪たちの隠しマネーが流れ込んでくるように、仕組みを造るからね。」
金「北には地下資源はたくさんあるし、これを資本算定すれば十分に担保機能になるけど、これまでワルドモがチャンと生産活動に移行させなかった。それより緊張をつくった方が手っ取り早く儲けられるとけしかけてきんたんだよ。まあミサイルもそれに付き合っていただけ。緊張を大きくした方が儲かる人間が日米にいたし、日本からはいくらかの裏口銭が回ってきて、北にはそれで食っている人間がいた。」
虎「でも、そんなのいつまでも続かない。続けるわけにもいかない」
金「そこにトラおじさんが登場。本気でこんな関係を変えよう、すでにある、あの金を上手に使って、と。それにキンペイ兄貴も同意。今、中国系・華僑系も来ているし、もちろん南の企業家も。なんも知らんのはその先の島国のみ。プーチン親分なんか、日米にいるワルドモを凍り付かせているしね」
・・・てな、会話をしていたかもね。
北の現場を知る人の最新情報は、「今春以降、北が変わることで地政学的変化が出るよ」とのこと。
で、北朝鮮に残されている高句麗時代の列島との関係も公開されるでしょうから、
戦後も続いていた、「日本神話(皇国史観)」の神通力(国家の利権体制維持)も消えるでしょう。
今、欧米世界では、村上春樹に触発され日本文学の研究が進み、森鴎外・夏目漱石が読まれだし、なかでも芥川龍之介のファンが増えているようです。どうも短編集が翻訳されたらしい。
私は芥川作品の中で「勾玉」が出てくる『神々の微笑』が好きです。というより、気になっています。
<簡単なあらすじ>
京都・南蛮寺。夕暮れの庭を歩く宣教師オルガンティーノは、言いようの無い不安に襲われていた。数十年来の布教活動が実り、今や日本国内のキリシタンは万を数えるほどにまで増えた。しかし、この国は岩から草木に至るまで、言いようの無い「霊気」に満ち満ちている。我らが「でうす如来」は、それに打ち勝てようか……。庭先の枝垂れ桜を見るたびに、不安は募るばかりだった。
おののくオルガンティーノは「でうす如来」に夕暮れの祈祷を捧げ、日本の神霊と戦う自身への加護を求める。その瞬間、彼の目前に異様な光景が繰り広げられる。それは、記紀神話「天岩戸」の場面だった。衝撃を受けたオルガンティーノは卒倒し、深夜になってようやく意識を取り戻す。「この国の霊と闘うのは存外難しい」とおののく彼の耳に、どこからか「負けですよ!」という声が聞こえてくる。
翌日、3、4人の侍が入信を求めてきた。新たな信者を得たオルガンティーノは機嫌を直し、天主教の勝利を確信する。そんな彼の前に、奇妙な老人が現れる。首に勾玉をかけた彼の正体は、日本古代の神だった。その神はオルガンティーノに語りかける。
「あなたは天主教を日本に広めようとしていますね。それも悪いことでもないかもしれません。しかしでうすもこの国に来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
オルガンティーノは反論を試みるが。・・・
<この文、終わり>・・・・・・・・・
さて上文に出る「首に勾玉をかけた彼の正体は、日本古代の神だった」という部分ですが、これを単に、芥川が記紀神話をそのままにして「八尺瓊勾玉」をとらえていたと考えたら大間違いを起こします。芥川自身、文中では、国家神道の中心である皇祖神アマテラスとは言わず、大日貴(おおひるめむち)と書いた。しかも、「3世紀の屏風」も登場させている。
芥川は記紀がいつ成立したか当然知っています。3世紀の魏志倭人伝に出てくる「ヒミコの正体」、そして「ハツクニシラス」も渡来だと推察し、しかも対外関係で言えば、列島の縄文人が、外来のものを選択・吸収・同化し・さらにそれを進化させて来た事実を熟知していたでしょう。国家神道が自らの権威の中心に仕立て上げた「アマテラス」では、その力とは全く関係なかったではないかと暗示し、それを「勾玉」で見せています。
上述したのは、あらすじだけでしたが、以下に本文の最後を載せておきます。
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「事によると泥烏須(デウス)自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明(ゆうあかり)にもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。
× × ×
南蛮寺のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾を引いた、鼻の高い紅毛人は、黄昏(たそがれ)の光の漂よった、架空の月桂や薔薇の中から、一双の屏風へ帰って行った。南蛮船 入津(にゅうしん)の図を描かいた、三世紀以前の古屏風へ。
さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺を歩きながら、金泥の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須(デウス)が勝つか、大日貴(おおひるめむち)が勝つか――それはまだ現在でも、容易に断定は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳ひいた甲比丹(カピタン)や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船の石火矢(いしびや)の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連バテレン!
(大正十年十二月)