「だから積極的平和主義がなにを指すのかを政府の側に定義させないとダメ」by佐藤優

このブログ、必見です。(昨年末から本年1月の書き込みですが)

http://www.sakura-bbs.net/r300p10a436.html

一部抜粋します。

<積極的平和主義>

244 佐藤
 重要なのは今回常設される「四者会合」(首相、官房長官、外相、防衛相)です。これはなにかというと、日本が戦争するかしないかを決める最高意思決定機関です。つまり統帥権(軍隊の最高指揮権。明治憲法下では天皇の大権と規定され、一般の国務から独立するとされた)の発動をするところなんです。
  戦争をする必要があるから、それに付随して戦前の軍機保護法と国防保安法にあたる特定秘密保護法が必要になってくるのです。 国際社会も 「日本は戦争をできる体制の国にすでになっていて、それを立法で追認している」と見ています。 

佐藤
そう思います。そして、安倍内閣は「積極的平和主義」を掲げています。積極的平和主義と言っても、国際法学者やリベラル派が言う積極的平和主義とは意味が違います。伊藤憲一さんという青山学院大学の元先生がいるんです。もともと外務官僚です。この伊藤さんが『新・戦争論――積極的平和主義への提言』という新潮新書を出しているんです。安倍内閣の「積極的平和主義」は、この発想です。要するに、戦争が違法化されつつある状態においては、米国を中心とした世界的規模での警察活動が積極的平和主義なんだというのです。 

佐藤
湾岸戦争のようなものに全面協力することが平和を作ることなんだという意味なんです。これ、戦争しろっていう意味なんですよ。『新・戦争論』で伊藤さんは次のように主張しています。
 二〇〇三年三月二〇日に開戦したいわゆる「イラク戦争」で、結果的にイラクに大量破壊兵器が存在しなかったために、米国の行動は越権行為であると世界世論のかなりの部分から批判されることになったが、

246 リベラルさん

 国連決議を実行するために行動した米国を批判することは大局的判断を見失った大きな誤りである、というのです。(同書一五〇~一五二ページの要旨)

福島
積極的平和主義そのものも根本的に批判しないとダメですね。

佐藤
そうなんです。だから積極的平和主義がなにを指すのかを政府の側に定義させないとダメですね。

福島
なるほど。 
 佐藤
一一月一、二日に、日露間の2プラス2。防衛相外相会合が行なわれたんですが、そこで岸田文雄外相が積極的平和主義の説明をしています。だから「積極的平和主義ってなんなんですか。伊藤憲一さんの言う積極的平和主義と同じことなんですか」って聞くと非常に面白いと思いますよ。
福島
戦争を開始することに関して言えば、自民党の日本国憲法改正草案には戦争を開始するときの規程がないんですよ。だから宣戦布告をしない。国会の事前承認も必要としていない。これはどうなのかと疑問に思っていましたが、つまり、この日本版NSCの四者会合の構成員である外務大臣と防衛大臣、官房長官、総理大臣で戦争開始を決めるのですね。

佐藤
そういうことです。戦争指導最高会議なんですよ。ここにあるのは統帥権なんです。これまでは戦争しない国だから統帥権はないということになっていた。国家安全保障会議(日本版NSC)の設置法は、統帥権の独立を担保する法律ですよ。そして、特定秘密保護法という技術法のところで起こりうる問題を処理しようとしている。ところが根っこはNSCで、これができることによって国家の構造がガラッといま変わろうとしているのです。

福島
要するに戦争をする国になる。特定秘密保護法とNSC法で原発推進・戦争遂行国家にするということですよね。そして、次に国家安全保障基本法を作ろうとしている。

佐藤
それを一番ハッキリわかっていて、きちんと言っているのが保守派の論客であるキヤノングローバル戦略研究所研究主幹の宮家邦彦氏(一九五三年~)ですね。彼も外交官出身で安倍首相のブレーンです。(2に続く)

(1からの続き)福島
実は、NSC設置法と特定秘密保護法に関して言えば、この二法ができることによって、防衛省が外務省に好きなように使われることになると言われているんですよ。

佐藤
まさにそれは正確ですね。外務省が絵を書いて、防衛省が行く。乱暴な言い方をすると「偏差値順」という発想ですよ。

・・・・・・・

<靖国関連>

リベラルさん  2013/12/29(日) 12:17:43

「将来、国を守る基礎をつくるため、国に殉じた人を祀るのが靖国の基本。遺族のために存在しているのでもない」と同神社に近い関係者は指摘する。

 その靖国神社ができてから、約百年後に本殿とは別に鎮霊社は建てられた。ここには白虎隊や西郷だけでなく、イラク戦争の死者など「万邦諸国の戦没者」も祀られているとされる。しかし、それらの人々の名簿はない。

 建立の経緯などについて靖国神社広報課に取材を申し込んだが、「業務繁多で十八日以降でないと回答できない」と言われた。

 代わりに前出の関係者は「賊軍も外国人も同様に祀るのは、人は死ねばみな仏になるという仏教にも影響を受けている」と話す。

 ただ、これは多分に建前のそしりを免れない。出雲大社や太宰府天満宮は怨霊(おんりょう)を鎮めるために建立されたとされる。この関係者は「鎮霊社もこれと同じ。怨霊を恐れ、抑えようとするのは神道の考えの根本だ」と説く。

・本殿の祭神と扱い歴然の差

 とはいえ、本殿に「祀られている祭神」とは歴然とした差がつけられている。現在は高さ三メートル弱の鉄の柵で囲われており、近くまで行けない。国籍や人種を超えた戦禍犠牲者の霊を祀るはずの鎮霊社は、なぜか一般公開すらされていない。

 〇一年に月刊誌で鎮霊社を論じた日大講師で現代史家の秦郁彦氏は、鎮霊社が建立された背景に一九四六年から七八年にかけ宮司を務め、A級戦犯の合祀には否定的だった故筑波藤麿氏の存在を指摘する。

 「靖国神社の(最高意思決定機関である)総代会がA級戦犯の合祀を決める七〇年以前に、総代たちと厚生省引揚援護局との間で合祀の根回しがあり、それに気づいた筑波さんがA級戦犯の『収まりどころ』として先手を打つ形で建立したのではないか」

 さらに、秦氏は「筑波さんは宮司の任免権を持つ総代会から合祀を求められ、拒めなかったが、同時に合祀する気もなかった。昭和天皇の意を体していたと考えられる」と解説する。

< p>筑波氏の死後、後任の故松平永芳宮司の時代(七八年)、A級戦犯は本殿に合祀された。秦氏は「筑波さんを補佐していた祢宜(ねぎ)に話を聞き、A級戦犯は一時、鎮霊社にいたことを確認した」と話す。 つまり、鎮霊社が建立された六五年から七八年まで、A級戦犯は鎮霊社に祀られていたらしい。

 秦氏は「鎮霊社は靖国神社が独自の判断でつくったもので、部外者がとやかくいうべきでない。世界中の戦没者を追悼するというのは正論で批判できない」と話しつつ、同神社が鎮霊社への参拝を受け付けていない理由をこう推測する。

 ■『分祀リンク神社嫌がる』

 「(月刊誌で考察を発表した)〇一年当時、自民党内から『A級戦犯は鎮霊社にお帰りいただいたらどうか』という声が出たと聞いている。靖国神社はA級戦犯分祀論との絡みで、鎮霊社が話題になることを嫌がっているのではないか」

 一方、筑波大の千本秀樹教授(現代日本史)は「霊を鎮めるという名前には、天皇に敵対して死んだ人たちがたたって出てこないようにする意味が含まれる。鎮霊社の本来の目的は天皇制、国家に逆らって死んだ人をたたりのないように鎮めることだ」と前出の関係者と同じ見方をとる。

鎮霊社が国内にとどまらず世界中の戦没者を祀っている点については「対象を広げているところにごまかしがある。本来は天皇のために死んだ人だけを祀る神社なのに、世界平和を祈っているというポーズをつくっている」と語る。 さらに、靖国が市民の戦争被災者と戦死者を分ける姿勢にも疑問を呈する。

 ■『一視同仁の思想に矛盾』

 「靖国神社は鎮霊社に参拝しなくていいという姿勢だ。なぜ、原爆や空襲の犠牲者が、賊軍と同じ場所に祀られているのかの説明もない。鎮霊社の存在は、天皇はすべての人を平等に愛するという『一視同仁』の思想にすら矛盾する。

 ■過去の参拝 首相訪問はなし

 小泉純一郎首相は、鎮霊社の戦没者も追悼の対象にしているのか。首相は二〇〇一-〇四年は靖国神社の本殿に昇殿し、昨年は拝殿前での参拝にとどめた。過去五回の参拝で鎮霊社を訪れたことはない。

 首相は〇二年の参拝所感では、追悼対象を「明治維新以来のわが国の歴史において、心ならずも家族を残し、国のために命を捧げられた方々全体」「国のために尊い犠牲となった方々」と説明。

・・・・以下、略しますが、このブログには、「京の風」も引用されています。全文をごらんになることを、お奨めします。

 また、 最後のところは、特に重要なので、書き出しておきます。

リベラルさん  2014/01/18(土) 16:41:1

国家神道とは、本来の神道が時の政治権力に都合のいいように捻じ曲げられて生み出されたものである。  国家神道は、民に同調圧力をかけ、民の行動、思考を一定の型に嵌め、国や社会全体のために自己犠牲をさせる。

国のため、全体のためを標榜しながら、そのつど都合の悪い部分を次々と犠牲にしていく。  その結果、全体という塊のあちこちがかわるがわる削ぎ落とされ、全体は次第に痩せ細っていく。 つまり、本当は全体のためではない。

全体は名目に過ぎず、権力を握る者たちとそこにかしずく者たちが、その時の体制にこびりついた既得権益を握り続けるために体制維持を図っているに過ぎない。そのためには削ぎ落とされる部分の民に自己犠牲を強い、使い捨てにし、棄民する。

それに対して、天武・持統以前、古事記・日本書紀によって天津神・国津神のヒエラルキーが作り出される前には、土地土地に個性あふれる八百万の神々がいて、民との濃厚なかかわりがあったと想像する。

それが本来の神道であるとするなら、標準を外れた異形、異能を惧れ敬うものであり、国家神道の自分達の都合に合わせた枠に嵌めようとする傾向とは逆である。規格化や統治ではなく、多様性、個性、土着性、型にとらわれぬ自由闊達を喜ぶ志向だ。現代のグローバル経済の傾向に対抗する考えとなり得る。

残念ながら、現代の神道には、富国強兵の国家神道的傾向が未だに強く尾をひいている。

< span>神道は、国家神道的傾向という罪穢れを一刻も早く根本から抜き去り、民の暮らしや伝統文化、土地土地の八百万の神々を敬う本来の神道に戻ることができれば、歴史に大きな貢献ができるだろうし、神道そのものも発展するのではないかと思う。

・・・(抜粋終り) ・・・・  以下、私のコメント。

明治にできた神社省を引き継ぐ神社本庁が、上記409リベラル氏のいうような変革ができるだろうか?

今、本当の日本精神を研究する神社界の人間は、第二神社本庁を構想し、実現に急いでいます。

そこでは、万物諸霊、アニメまで対象にしています。私たちが、島国ガラパゴスから脱し、宇宙と響き合った普遍のイノチの大元と一体になれるかどうか。 

 「国家」が用意する、保障をかなぐり捨て、自分が自律・自立できるかどうか、すべてはここから。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。