こんにちは。 まず、以下の額、分かりますか? 宗像大社の本殿にあります。
九州の宗像・沖ノ島について、これを、世界文化遺産とするかどうかで、ユネスコの国際記念物遺跡会議(イコモス)が以下の姿勢を発表しました。時事ニュースです。
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・「沖ノ島」世界遺産へ=ユネスコ諮問機関勧告-7月正式決定
文化庁は5日、「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」(福岡県宗像市、福津市)について、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関の国際記念物遺跡会議(イコモス)が世界文化遺産に条件付きで登録するよう勧告したと発表した。7月にポーランドのクラクフで開かれるユネスコの世界遺産委員会で正式決定される見通し。
登録されれば、国内の世界遺産は21件(文化遺産17件、自然遺産4件)となる。
「宗像・沖ノ島」は、九州と朝鮮半島の間に位置し、島全体が信仰の対象とされる沖ノ島(宗像大社沖津宮)のほか、別の離島である大島や九州本土で共通する祭祀(さいし)を行った宗像大社の中津宮と辺津宮▽大島から沖ノ島を拝む沖津宮遙拝所▽祭祀を担った豪族宗像氏の墳墓「新原・奴山古墳群」-の資産で構成される。
イコモスはこのうち、沖ノ島と付随する三つの岩礁(小屋島、御門柱、天狗岩)のみを登録し、他の資産は除外するのが適当と勧告。名称も「『神宿る島』沖ノ島」に変更するよう求めた。
沖ノ島では4~9世紀、朝鮮半島や中国大陸との交流成就や、航海の安全を祈る大規模な祭祀が行われた。朝鮮半島からの金製指輪や、ペルシャからもたらされたと考えられるカットグラスわん片など約8万点の奉献品が出土。全て国宝に指定されている。
今も女人禁制などの禁忌が残る。上陸は厳しく制限され、許された場合も着衣を全て脱いで海に入り、みそぎをしなければならない。
イコモスは、沖ノ島について「古代祭祀の記録を保存する類いまれな『収蔵庫』」として考古学的物証の価値を評価。
一方、他の資産の価値は「世界的とは認められない」と判断した。今も信仰が継続していることを価値として挙げた日本側の主張は、沖ノ島も含めて「正当化されていない」と退けた。
6日未明に記者会見した文化庁の大西啓介記念物課長は「厳しいものだった」と話した。今後、勧告通りに資産を絞り込むか、全資産の登録を目指すかなどの対応を福岡県や関係機関と協議する。
世界遺産をめぐっては、政府が2018年の登録を目指して「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」(長崎県、熊本県)を文化遺産に、「奄美大島、徳之島、沖縄島北部および西表島」(鹿児島県、沖縄県)を自然遺産に推薦している。(2017/05/06-05:47)
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沖ノ島の「収蔵庫」としての考古学的な価値は「類い希」と認めるが、日本側が主張する「信仰が維持している」とする価値は、「正当化されていない。除外するのが適当」と、はっきりと否定した。
沖ノ島には、4世紀後半から、9世紀までに、多くの宝物が運び込まれました。
ここには、大陸(半島・大陸・ペルシャなど)のものもあれば、日本列島のものもあります。
この沖ノ島と対比される遺跡に、壱岐の原の辻(はるのつじ)遺跡が在ります。こちらには、4世紀の前半までの遺物が出土します。こちらには居住地域も在り、明らかな中継地で、そこでは、王権の正統性(価値の基準)として、後漢~晋時代までの大陸の都である、洛陽を向いていました。つまり、日本列島が、中華皇帝を権威の中心とした、中華文明を吸収していく過程が見えます。
それに対し、沖ノ島は、その中華の渦に巻き込まれながら、日本列島の価値(これは縄文からの霊性)で、巻き込み返すときの最前線の拠点になりました。
4世紀の中頃~後半は、ヤマトタケルの時代から、ホンダワケ(応神)の誕生にあたります。
そして9世紀の終わりとは、894年に遣唐使が廃止されたように日本に国風文化が完成したときです。
この間、500年以上にわたってどんなドラマがあったか、それを、考古学による実証主義で、冷静に事実史を明らかにするのが、本来の科学的な作業ですが、そこに入らせない効果を持つことになったのが、皇国神話です。これが明治の近代日本で特に強調され、そのまま現代に至っても存続してきたのです。
「玄界灘を越えたら、それは邪の着く世界」 こう言ってきたのです。
沖の島を、女性禁止の禁足地にするというのは、そこで、人間としての生活を営ませなくすることでした。日本列島各地に神域があり、それらは自然霊や祖先神などと通じる場でしたが、この沖ノ島は、それまでの大陸との繋がりを最初は記念しながらも、徐々に遮断していき、日本人のアイデンティティーを形成するときに、きわめて大きな作用をしてきました。
簡単に言うと、日本人が列島に籠もってガラパゴス化していったときの、最重要拠点。
この点を、今、ヌナトレポートに書いています。
そして、中華皇帝と対抗して、日本列島の独自の価値で、それまでの全ての文明の利器を捉え直す、その中核にあったものは、一体、何でしょうか?
それが、縄文と弥生を融合させたチカラです。その象徴が、八尺瓊勾玉。
その場所は、北信濃です。そこから、日本列島の原初王権「ニギハヤヒ」が生まれています。
今週末、ヌナトツアーでは、それをはっきりさせます。
海人族の拠点だった宗像大社の本殿に
掲げられた神勅「奉助天孫而 爲天孫所祭」が何を意味するのか、これが現代日本の、政治問題にもなっている日本会議の拠点・住吉大社、さらに、高市皇子、天武の晩年につけられた年号「朱鳥(あけみとり)」にどう関係するか、大いに語り合いましょう。