こんにちは。
先週の名古屋と大阪では、新しい仲間も増え、楽しい会になりました。
11月6日(日)に、宇治で、日本書紀と宇治 をテーマに話します。
主催者は、「ちはやぶる宇治の未来をつくる会」
会場が、宇治駅のすぐ横の、「ゆめりあ うじ」です。
午後3時からです。 連絡先は、090-3994-7595 森田さん。
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2020年が、日本書紀編纂1300年ということで、宇治でも、この年を祝いたいとのこと。
日本書紀は、面白い。 日本人の文化と統治体を語るうえで、アイデンテイテイーとなる大きな柱になっています。
712年に成立した古事記との違いを整理すると、違いが分かってきます。t
古事記の始まりは、アメノミナカヌシ 日本書紀は、クニトコタチ
古事記の終わりは、ウマヤドの誕生574年 日本書紀の終わりは、持統の退位697年
日本書紀には古事記にない物語として、ウマヤドの成人から死、太秦と常世神 入鹿殺害 斉明の吉野宮 白村江の敗戦 近江大津京 壬申の乱 天武の「朱鳥」 持統の吉野行き 高市皇子の死 などが、あります。
古事記の完成は、712年なのですが、なぜ、ウマヤドの誕生以後の物語を書かなかったのか?
それから8年後には、日本書紀が完成しましたが、なぜ、持統の退位で、終わりにしたのか?
712年から、720年に、何があったのか?
この期間に、不比等たちが、史書の編纂作業で、改めて、日本列島の歴史を見つめているときに、大きな、国際情勢での重大事があったと考えるべきです。
それは、則天武后が作り上げた、「周」の滅亡です。
始皇帝以前に戻そうとしていたのが彼女で、彼女の治世のときに、 国名の「日本」が承認されたのです。
その上で、717年の遣唐使 が肝心です。ここに、阿倍仲麻呂がいました。不比等の長男の宇合もいました。
また、
「YAMATO」の音に、 漢字表記で 「日本」と、つけたのは、この日本書紀からです。
それまでは、 倭、 山門、 大和 でした。
宇治に、何らかの「神」威を感じ、畏怖していたのが、3世紀末~7世紀の列島の人間でした。
福岡の宇美で生まれたとされるホンダワケ(応神)が、武内宿祢に連れられ、宇治で忍熊王を破り、さらに、敦賀にいき、再び宇治方面に戻るとき、木幡で宮主宅媛と交わった。この後、宇治に都を造り、死後は、羽曳野に埋葬された(誉田丸山陵)。
宇治とは、どんな場所だったのか? 「木幡」と、「鏡山」が、重要なキーワードです。
古事記の編纂を命じたのは683年の天武ですが、その天武が崩御するとき、「朱鳥(アケミトリ)」の元号が送られました。そのあと、ウノササラ(持統)が4年の称制を経て即位して、伊勢に行き、31回、吉野に通ったあと皇祖神アマテラスを作り出し、藤原京を造って、高市皇子の死後に、孫とされる、軽皇子(豊祖父命)に、譲位しました。これが文武になります。
日本列島で水稲の稲作が始まるのは3000年前(佐賀県の菜畑遺跡)ですから、持統の退位=文武の即位の697年までに、1700年の時間が流れていました。 3000年前というのは、殷周革命や、古代イスラエルの成立とほぼ同時期です。
この1700年の時間の流れはあまりに長い。日本列島では1万年以上続いた縄文人の上に、どれほど多くの人間が入り込み、溶けこんだのでしょう。
BC221に、中国大陸で秦が統一し、孔子が求めていた理想の政治体制が実現し、法治主義を始めましたが、その秦は二代で終わり、「項羽と劉邦」の勝者である劉邦に、始皇帝の孫の子嬰(父は扶蘇)から玉璽が渡され、そこから、漢帝国が始まった。 漢民族とは、このときの政治体の成立から生まれた概念です。漢では、8代の武帝劉徹のときに、儒教秩序が確立します。この影響は、日本列島に及んでいます。
それが王莽によって壊れ、後漢の光武帝劉秀が再度、統一王朝を立て直した。(このときに「金印」)。その後漢も、黄巾の乱の後、三国志の時代になり、曹操の息子の曹丕が、後漢の献帝から皇帝の地位を奪ってt魏を立て、その魏の二代目皇帝の明帝曹叡のいる洛陽に、邪馬台国の卑弥呼は、帯方郡を経て自分の使者を送っています。
魏は司馬懿(仲達)の孫の司馬炎によって皇帝位が簒奪されて、晋になり、その晋は内乱と匈奴系部族侵攻で滅び、華北は五胡十六国の戦乱になり、華南では司馬懿の曾孫にあたる司馬睿が晋皇室の最後の生き残りとして現在の南京の地に亡命し、東晋を立てた。五胡十六国は前秦が統一し、前秦と東晋の戦い(383)のあとに、華北に
北魏が興り、その北魏は東西に分裂したあと、西魏を継いだ北周が、東魏を継いだ北斉を破って、まず華北が統一され、その北周の将軍だった楊堅が簒奪して隋を立て、さらに南朝の陳も併合し、文帝として、595年に泰山封禅し、統一を回復しました。
その文帝の息子が煬帝楊広で、この人物のもとに、607年小野妹子が派遣されました。その煬帝の部下だった李淵が、次男の李世民に促されて興したのが、唐です。
古事記の最後に書かれた「ウマヤドの誕生」とは、上記の中で、北周が北斉を滅ぼした時期に当たります。
また、日本列島での持統の即位と、大陸で史上初の女性皇帝、則天武后の即位は、同じく、690年でした。
日本の宮中雅楽は、始皇帝の治世を祝うものですが、則天武后は、始皇帝の即位前の周の時代の統治概念である「徳治」を目指し、その姿勢は、娘の太平公主が引き継ぎましたが、彼女が死んだ年が712年で、玄宗李隆基によって、唐が回復した年でした。
このときのまでの中国大陸での王朝の交替や政変を、日本列島の民がどう受けとめ、その中から、どのようにして、スメラミコトを誕生させていったのか、これは本当に壮大なドラマです。
天武の后だった持統(ウノササラ)が、皇祖神アマテラスを作り出すときには、傍らには不比等がいて、地球史全体の視野に立って、日本列島に限定した、王権、あるいは、統治体をつくりあげるという、大きな使命がありました。これは、あたらしい民族の創出 でもありました。
そのとき、シュメールやエジプト、ヘブライ、アケメネス朝ペルシャ、ギリシャ、ローマ、クシャーン、ササン朝ペルシャなどからも、その背景を持つ人間が入り込んでいます。
地球で氷河期が終わったあと、地勢や気候に順応して、各地で独自に生存手段を確立して、個々に自律自立しながらも、原始交易で平和裏に遠隔地ともネットワークを保って、部族社会を構成していた段階から、いつ、どのようにして、巨大王権(情報体系)が誕生し、それが、世界史の主流になっていったのか、 この人類社会の発展の原理に立って、日本列島での、王権=天皇の誕生も、きちんと考えてみたいとおもいます。
日本の天皇家の祭祀には、本当に多くの要素が入り込んでいます。
それを、一つに、まとめあげたのは、鎌足~不比等の親子です。
彼らの出現と、その歴史的意義は、狭い東アジアだけでは、とても語れません。
鎌足は、日本書紀では、大化改新の前年の正月に、いきなり、神祇官に推薦されているのです。
また、日本書紀には、百済の最後の王,義慈王の弟のギョーキや、高句麗の淵蓋蘇文の息子の男生、新羅の文武王の息子(金霜林)が登場し、
特に664年の条には、淵蓋蘇文の遺言まで載せ、その翌年に、唐の占領軍司令官にあたる劉徳高が宇治で、閲兵していることまで記載しているのです。
このことを、これまでの歴史学者は、まじめに受け止めていないのは、本当に、悲しいことです。
その翌年の666年正月に、唐の高宗李治が泰山封禅し、旧唐書の劉仁軌伝では、そこに、「新羅・百済・倭国・耽羅の酋長が出席している」と記します。このときの倭国の酋長とは、はて、これは誰だったのでしょうか?
木幡神社の伝承では、大化改新の前の643年に、宇治の木幡に天神が現れ、大化改新後にその木幡に、鎌足が天神を祀っています。その地は、671年に、大海人が天智に抗議した後、大津京に戦いを挑む決意をして、勝利を請願した地でもありました。
明治維新以後、伊勢神宮の主祭神アマテラスが、日本列島と日本民族では、すべての「神界」の頂点にたつ神とされるようになりましたが、その伊勢の内宮の前に、五十鈴川が流れ、そこに架かる橋が、宇治橋です。
伊勢が独自の領地をもったのは646年で、この年に、日本で初めての橋、宇治橋が、宇治川に架けられました。そのときから伊勢に、社殿が徐々に準備されていき、8世紀に入って、伊勢に宇治橋がかけられたあとは、本家の宇治橋のある、宇治では、それまでの「宇治の役割」が、完全に変わっていったようです。
そして、平安時代になると、
宇治は、完全に「別業の地」となり、平安貴族にとって、今生とは違う、もう一つ別の人生を考え、感じ入る土地になりました。