昨夜、高速バスの最終便で長野の柳沢車庫に帰って、カミサンに迎えに来てもらって、今日は、昼間、眠っていました。
まるまる48時間。濃かった。そして、楽しかった。
関東の重要な神社の創建の意味、さらに、江戸の天保年間に何が始まったのか、きちんとわかったから。
掲題の4か所の意味が解りますか?
(以下は、17日に記載)
1) 万座温泉 日進館。:信州中野の自宅を朝7時30分に出て、志賀高原を白根山に向かう。目的地はその先にある万座プリンスの隣。このホテルには10数年前に全国美人女将選手権で優勝した女将さんがいます。実はこの日は、その美人女将の最愛のご主人が亡くなって一周忌でした。神戸平和研究所の杣浩人さんはそのゲストスピーチに招かれました。ご主人がキリスト教徒で、タイなど海外でも慈善活動をしており、自分の内側にある「喜びの光」を常に全開して、出会った人を喜ばせ続けた人生だったようです。ホテルの地下にある会場の名前が「シオンの泉」。この日は、海外からも、東京からも、群馬の妻恋村からもあつまり約80名。そこで、杣さんは「聖書」が誕生した背景を明示しながら、その内容がどう変えられてしまったかを解説しながら、世界の平和の道を話されました。
万座温泉は白濁色で、玉川温泉と同等かそれ以上の効能があるらしく、ファンが結構多いようです。
2)祈りと賛美歌が終了後、杣さんは新幹線に乗るので、万座から軽井沢方面に向かいましたが、私たちは一気に長野県高山村の牧の集落に向かう急傾斜を下って須坂に出た。ここで、昼食に「ザカス・ラーメン」を食べて、須坂ICから高速の信越道に上がった。目的地は太田市にある世良田東照宮。ここで、ぬなと書房の総監督と合流。ただ残念ながら宝物館は閉館時間になり、中身が見れなかった。ただ、ここで宮司さんと会話。天海がこの神社を開いて400年、ここを守るのが一族の使命で、自分はこの家に生まれた宿命を感じていると。ここでは、新田から始まった一族内の争いで、徳川が生まれた、と理解できました。また、上皇后の生家の正田家が最初は生田家と呼ばれていたことも教えていただいた。
3)太田市は古墳が多い。これは5世紀から関東平野の中心だったことの証です。舘林方面に向かって地元の温泉に入って「坂東太郎」という店を教えられ、そこで夕食。この店のモットーが「親孝行」。店に入るとすぐに、各パートごとの責任者を名札にして客に明示してある。店全体で「一つの家族」のごとくサービスと価値を生み出していることに感心する。すでに、関東北部に80店舗をもつチェーン店だった。その夜は、皆神塾の参加者のお宅に宿泊。場所は利根川の堤防のすぐ北側にある邑楽郡千代田町の大きな農家。ここに泊まることで、地理と地勢を体感することに。江戸時代までは利根川の中流域で湿地帯だったところ。その家には雷電神社の護符が貼られていました。
4)翌朝は板倉に向かい、cocosで朝食。雷電神社に到着すると雨が降り出す。この神社は、天保6年(1835年)に社殿が造られている。日光の陽成門の意匠に似ていると思ったら、左甚五郎の10代目の子孫の作でした。透かし彫りの彫刻が素晴らしい。その奥宮には598年に聖徳太子の所縁の祠があったとの伝承がある。奥宮に祀られている祭神が、なんとイザナミ。最近、古事記の中で、イザナギとイザナミが別れた、ヨモツヒラサカの事が気になっていたので、関東のこの地に、遣隋使の派遣前にイザナミが意識されたことを知り、自説が補強された、大いに納得。その意味は、淡路島にある、元熊野と呼ばれる諭鶴羽神社と同じく、ここでも、縄文の女神さまを指していると判った。この日、6月14日は雷電神社本殿にある太子像が開示される日だったので、私たち以外にも参拝客が来ていて並んでいた。なぜ、群馬の東の果て、利根川の湿地帯のなかに、太子の所縁の神社があるのか?
私の考えは、この地に、683年戸隠で拉致された天武が半年間、幽閉されていた、というものです。正面の本殿の中には、昭和初期に作られたと思しき巨大なカイチ(ユニコーン)像があった。獅子はなく、カイチのみです。
私は、太子像に丁寧にお辞儀し、「アメノコヤネを、アメノオオヤネに」と願いを込めた。 その時、同行していた小野妹子の末裔さんが、新井さんは、こっちをお参りしなきゃダメでしょ、というので、案内されたのが、社務所になっている屋敷。そこには、大きな真鍮のナマズ像が鎮座していた。これが、この神社の本当のご神体。でも、なぜ、ナマズなのか?
そうか、ナマズはいつも泥の中にいて、大地のイノチの響きと、天の知らせを繋ぐ、イナビカリを呼び起こす聖獣だったんだ。人間も、子供たちは泥んこ遊びが大好きだし、体の中の電位調整にも、サイキックスポンジになった心身の浄化にも、泥遊びはぴったりだし、と。
参拝後、雷電神社の向かいにある、ナマズ料理「小林屋」で昼食。淡水魚づくし、美味しかった。ここでは、天然ナマズも、ウナギも、クチボソの佃煮も、鯉こくも食べることができました。
5)板倉で、天と地をつなぐ、イカヅチを呼び起こすナマズさんへのあいさつが終わったので、埼玉県日高市の文化センターに向かう。この日、ここでは高麗ロマンセミナーがあり、今回は元奈良文化財研究所の小笠原さんによる、木津市の高麗寺に関する講義を聞いた。この内容は、一言でいうと、飛鳥の川原寺の瓦と高麗寺の瓦の比較から、668年の天智の大津宮での即位の時に、この高麗寺に天智は相当な待遇をしていることがわかると。しかも、瓦を基壇に使用するときに、地震に対する備えもしていた、という内容でした。
終了後、このセミナーの主宰者側である、高麗神社の宮司や当地の歴史ファンに、自分が板倉の雷電神社に午前中にいってきたこと。現代のイカヅチだった金井敏伯氏に「縄文からの連続性を調べよ」と言われたことを話し、自作の歴史系図を渡しながら、「高句麗との交流の実態を調べるなら、是非、信濃の千曲川水系、特に高社山との関係を調べてください」と言って別れた。
6)最後は高麗神社に参拝。ここを天皇陛下(現在の上皇)が公式に参拝したのは、2年前の9月20日。
この神社は正式名称は「高句麗神社」。実は、天皇陛下は私的にそれ以前に4回参拝していたらしい。
私の長野への帰宅の足は川越からの高速バスだったので、小京都の川越に。残念なことに歴史文化地区に車で入った時はまだ多くの店が開いていたが、駐車場から歩き出すともう午後6時を過ぎていて、次々と店じまい。カミさんへの土産にしようと思っていた名物の芋菓子も買えなかった。しょうがないので、まだ開いていた蕎麦屋に入って、茶そばを食ながらこの二日間をみんなで総括。そして、小野妹子の末裔さんに川越的場のバス停まで送ってもらって、高速バスの最終便で柳原の車庫まで。
楽しかった。それも、楽しい重さだった。
とにかく、248年以来、日本列島の国体を支える神霊たちに挨拶ができたのではないか、という充実感でいっぱいでした。
21日の皆神塾では、何があったか、その意味も話しますね。テーマは、「日本って、なあに?」