大伴旅人の魂魄が「令和」で安倍政権を「上に立つ資格なし」と永遠に糾弾する;長屋王を亡き者にした所業がどうしても許せない。権力を笠に着た者どもの横暴は許せないどころか、片時も忘れることができない…

今回の「令和」について、万葉集学者の品田悦一さんの解説と、現政権へのメッセージ。
https://docs.wixstatic.com/ugd/9f1574_d3c9253e473440d29a8cc3b6e3769e52.pdf

(最も重要部分を抜粋します。)

「梅花歌」序とそれに続く一群の短歌に戻りましょう。「都見ば賤しきあが身またをちぬべし」 のアイロニーは、長屋王事件を機に全権力を掌握した藤原四子に向けられていると見て間違いない でしょう。あいつらは都をさんざん 蹂 躙したあげく、帰りたくもない場所に変えてしまった。王羲之にとって私が後世の人であるように、今の私にとっても後世の人に当たる人々があるだろう。 その人々に訴えたい。どうか私の無念をこの歌群の行間から読み取って欲しい。長屋王を亡き者にした彼らの所業が私にはどうしても許せない。権力を笠に着た者どものあの横暴は、許せないどころか、片時も忘れることができない。だが、もはやどうしようもない。私は年を取り過ぎてしまった……。
これが、令和の代の人々に向けて発せられた大伴旅人のメッセージなのです。テキスト全体の底に権力者への嫌悪と敵愾心が潜められている。断わっておきますが、一部の字句を切り出しても全体がついて回ります。つまり「令和」の文字面は、テキスト全体を背負うことで安倍総理たちを痛 烈に皮肉っている格好なのです。もう一つ断わっておきますが、「命名者にそんな意図はない」という言い分は通りません。テキストというものはその性質上、作成者の意図しなかった情報を発生 させることがままあるからです。

安倍総理ら政府関係者は次の三点を認識すべきでしょう。一つは、新年号「令和」が〈権力者の 横暴を許さないし、忘れない〉というメッセージを自分たちに突き付けてくること。二つめは、この運動は『万葉集』がこの世に存在する限り決して収まらないこと。もう一つは、よりによってこんなテキストを新年号の典拠に選んでしまった自分たちはいとも迂闊(うかつ)であって、人の上に立つ資格などないということです。

PS:日経新聞では、こんな解説もありました。
https://r.nikkei.com/article/DGXMZO43167710R00C19A4EA2000?s=3

この記事を書いた人

新井信介

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。