2012年12月、「安倍なるもの」が列島で動き出したとき、完全に消えてしまったものがある。
「このまえの戦争は、侵略戦争だった」と岸信介自らが回顧しているのに、そうした反省が微塵もない意識の人間が、黒田バズーカ アベノミクスを求め、さらに、内閣人事局で、安倍晋三に極端に権力を集中させてしまった。
そして、1958年に誕生した統一教会が、安倍晋三の庇護のもと、再び大きく活動し、日本列島を幼稚で愚劣な愛国思想が広がりだした。
これは、世界を覆う、グローバリズムと、戦争屋(薬屋)による、金儲け最優先と人口削減の意思が日本列島に浸透し、主導権を確立した姿だった。
統一教会は、文鮮明が当時の首相だった岸信介が、渋谷の南平台であったときに、日本での宗教活動(金品巻き上げ)が開始された。それを岸が同意したのは、この前の戦争は負けていなかったとする満州亡霊の悪行の始まりであり、そうして、生まれれる体制を、満州国時代に起源を日本の財界(経団連)の一部が極端にが望んでいたもので、それを、また、アメリカの戦争屋、さらに、軍事力のための財政拡大派がの望んだものだった。
自民党は、憲法改正を党是に掲げ、戦争をできる国家にしたくてしょうがない組織でだった。
一方、この前の戦争で、実際に満州に送り込まれた日本人は、そこで何を見てきたか?
特に、「上官の命令は天皇の命令である」といっていた軍の指導部は、どんな意識だったのか?
奇跡的にも、無事、復員を果たした人間は、体験したことが過酷であるものほど、口をつぐったが、逆に、どうしてもこれだけは伝えておかねばならないと、ペンを走らせたものもいた。
その中の一人が、五味川純平だった。
その彼が実体験したことをもとに書き上げた小説が、「人間の条件」だった。
それが映画化されて封切られたのが1959年で、この年は、アマリカのCIAの手引きで、岸と文鮮明があった翌年だった。
今の60歳未満の人間は、この小説や映画があったことすら知らない人間が大半になってしまったのでしょう。
漫画の「鬼滅の刃」を見て感動しても、今から80年前に、ナマの戦争があったことなど、もう感覚的にからなくなっているのでしょう。20~30代の安倍晋三人気とは何だったのか、本当によく考える必要があります。
まあ、増上寺の葬儀で、涙した若い人は、ほとんんど統一教会の関係者だったらしいですが。
五味川純平の忌日に、人間の条件について、書いたブログ記事があったので、以下あげておきます。
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人間の條件 第1・2部 : 作品情報 – 映画.com (eiga.com)
五味川純平は、1916(大正5)年3月15日、中国大連に近い寒村に生まれる。1933(昭和8)年大連一中卒業。満鉄(南満州鉄道)奨学資金給付生となり、東京商科大学(現一橋大学)予科入学するも、中退。東京外国語学校(現東京外国語大学)英文科卒業後、旧満州)・鞍山(現在の遼寧省)の昭和製鋼所に入社。1943(昭和18)年召集を受け、満州東部国境各地を転々とし、1945(昭和20年)年8月のソ連軍の満州侵攻時には、所属部隊はソ連軍部隊の攻撃を受けて全滅に近く、生存者は五味川以下数名だったという。捕虜となり、1948(昭和23)年の引き揚げ後、自らの従軍体験を基にして、非人間的な軍隊組織と個人との闘いをテーマに書き下ろした『人間の條件』(全6部。三一新書が1956年-1958年発刊)が1,300万部を超える大ベストセラーとなり、一躍人気作家となった。
この『人間の条件』がベストセラーとなったきっかけは、1958(昭和33)年2月16日号の「週間朝日」のトップ記事、「隠れたベストセラー」で、7ページにわたって扱われたことによるという。このことについて、朝日クロニクル週間20世紀(1958年号)には以下のように書いてある。“ その記事の前文には、「新聞の広告にも出ない、批評家にもほとんど問題にされない1冊の本が、いま農村で、町で、職場で、家庭で読まれている。無名の新人五味川純平氏の『人間の条件』(六部作)」がそれである。この1年間ですでに19万部売れ、しかも尻上がりに次第に版を重ねているという。この本のどこが現代人に訴えているのであろう」。僥倖(ぎょうこう=思いがけない幸運)とも言うべきヨイショだった”・・・と。そして、“この本は、いくつもの出版社をタライ回しにされた後、三一書房へ持ち込まれた作品だったが、社長の竹村一は、1、2巻の900枚を一気に読み終え、その場で出版を決めたという。何が彼を?そこには、「無辜(むこ=〔「辜」は罪の意〕罪のないこと。また、その者。)な中国人に対する日本帝国主義の侵略戦争であることを知りながら、日中戦争(支那事変)へ一兵士として駆り立てられた2人であった。その心の傷の共有は、同時代の人間の域をはるかに超えた厳しさと連帯があった」という竹村の共犯意識があった。”からだと・・・。
三一書房は、竹村一が1945(昭和20)年に、京都で創業。後、東京に移転。会社名は、日本の朝鮮統治時代に、1919年(大正8)3月1日から約1年間にわたって起こった朝鮮「民族」の独立運動「三・一独立運動」(以下参考に記載の「※三・一運動」など参照)に由来している。出版物は、おもに社会問題に関する書籍、概ね反体制・反権力的な姿勢を貫いたものが多いようだ。
その後も五味川は同じ、三一書房から大作『戦争と人間』(全18巻。1965年-1982年)を発刊しているほか『ノモンハン』(1975年文芸春秋)、『ガダルカナル』(文芸春秋、1980年)など、数々の戦争文学を世に問う。これらの中、『人間の條件』は、小林正樹監督により、同名で全6部構成で映画化され、1/2部は1959年(1月)、3/4部は同年(11月)、5/6部は1961年に公開された。反戦思想を持ちながら、日本の傀儡国家・満州の国策会社満鉄に勤めていた主人公の梶は、大儀名分のない太平洋戦争に刈り出され、ソ連国境で敗戦を迎える。生き残ったのは僅か3人。死地を逃れ挙句にソ連兵の捕虜となる。収容所には生き延びた3人の中の1人桐原がいて、捕虜を管理していた。その桐原を殺して、逃げ出した梶は愛妻美千子のもとへたどりつこうと荒野をさまよいついに命はてる。戦争文学ではあるが、戦時中の日本軍の暴虐と、それに反抗したインテリ兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描いた作品であり、当時の多くのスター俳優/女優をキャスティングした大作映画で、総上映時間は9時間38分に及び、制作当時は商業用映画としては最長の長さであった。第23回ベニス国際映画祭サン・ジョルジュ賞(銀賞)を受賞している。
『戦争と人間』も、1970年~1973年に、山本薩夫監督により同名で、史上最大の9時間23分にわたる戦争大河超大作(3部構成で、第一部「運命の序曲」 1970年/197分 、第二部「愛と悲しみの山河」 1971年/179分、 第三部「完結編」 1973年/187分) として製作され、日活配給で公開された。大規模な戦闘シーンは、ソ連軍の協力で撮影された。当初は4部作を予定していたが、豪華キャスト(ここ参照)・本格的な戦闘シーン・海外ロケと日本の映画史上でも屈指の大作であったため、当時の日活の財政事情もあり結果的に予算が続かず、第3部で完結を強いられたのだという。
1931(昭和6)年の満州事変前夜から1939(昭和14)年のノモンハン事件までを背景に、様々な層の人間の生き様から死に様までを描いた複雑多岐な人間群像ドラマであり、その後の太平洋戦争に至る経緯について丁寧に表現されている。 日本の立場を侵略行為と明確に定義付け、歴史的検証に基づいて製作されたという。
五味川純平の生涯のテーマは、戦争の非人間性、不条理さを描くことにより、戦前日本を告発することであった。
彼は、冒頭の経歴にも書いたように、ソ満国境各地を転戦し、1945(昭和20)年)8月、ソ連との交戦で所属部隊は全滅し、捕虜となっている。そんな彼の『人間の条件』に繋がる戦争体験を短編小説化した作品『不帰の暦』が、1977年夏『別冊文藝春秋』(140号)に掲載された(以下参考に記載の「日本ペンクラブ:電子文藝館」に『不帰の暦』が掲載されているので参照)。
その中には、実際に体験した者でなければ決して描くことの出来ない、人間尊厳の極限を克明に描写してる。
映画好きの私は、五味川純平の小説は読んでいないが、「人間の条件」も「戦争と人間」も映画は見た。
「戦争と人間」三部作の中でも、完結篇を見れば映画は見たと言えるかも知れない。
この完結篇の中で、反戦活動を問われ、同志の田島とともに投獄された伍代俊介は、伍代家の威光で、拷問と闘う田島を残して獄から解かれた。自らの矛盾に悩む俊介は、対ソ戦の第一線に一兵卒として銃を取る。昭和14年の満州と外蒙古の国境ノモンハンでの国境紛争からソ連軍との間に大規模な戦闘が開始されるが、この戦いで、日本軍は高度に機械化された物量を誇るソ連軍、つまり、とっても勝てるはずがないソ連軍に惨敗。俊介の所属する部隊も、ソ連の戦車軍団によって徹底的に壊滅する。青年将校柘植(伍代家の長女・由紀子が愛していたにもかかわらず、政略結婚のため結婚できなかった相手)は、砲弾が炸裂する中を、ソ連軍の陣地に斬り込み、壮烈な最期をとげた。戦いというよりも、日本軍司令部の苛酷な命令に従った死の突撃だった。天を焦がすどす黒い硝煙の下、累々と地を覆う日本兵の死体。ノモンハンの荒野は墓場と化し、生き残った僅かの帰還部隊がハイラルの街を行く。放心した隊列の中に俊介の姿もあった……。この時、ヨーロッパでは、ナチスがポーランドを占領。やがて、大戦の炎は、不気味に膨張した日本ファシズムを捲き込んでいった……。ノモンハンでの俊介は、まさに、『不帰の暦』の中で昭和20年8月にソ連と戦った“私”・・・つまり、五味川の体験したことであろう。
総力を挙げて小国を守り抜こうという気風は日露戦争まで続いていた。大山巌も児玉源太郎もかって維新で山野を駆け巡った無名の青年で、この戦争の難しさをよく知っており、だからこそ戦争の終わらせ方についての政府の苦悩を分かつことが出来た。「終戦」という言葉は、大東亜戦争(太平洋戦争)にではなく日露戦争の終りにこそふさわしいものであったはずであり、乃木希典にもこの苦悩はわかっていたであろうが、彼の作戦はたくみであったとは言えなかった。しかし、その作戦上の失敗は、日露戦後の陸軍の総花式の勝利美化の正史の中に隠され、そのような集団が一丸となって仲間の失敗を隠す風習は、やがて、陸軍幹部と報道陣を巻き込み、行き詰まった日中戦争を打開するためにより大規模な戦争への道へと進み、昭和14年、ノモハンでの、全く戦力的に太刀打ちできないソ連・外蒙軍と日本陸軍が衝突、そこで大失敗した事実を隠し通すという集団犯罪ともいえるものに発展した。その当時、ヨーロッパで第二次大戦が勃発し、ドイツは翌年5月にオランダ・ベルギー、6月にはフランスを降伏させた。ノモハンの敗北によりソ連との戦争(北進)を数年間控えなければならなくなった日本の支配層は、ドイツの勝利に便乗し、ドイツと提携してフランス・オランダ・イギリス支配下の東南アジアへの進出(南進)をはかろうとし、9月、日本軍は北部仏印に進駐し、さらに27日ドイツ・イタリアとの三国軍事同盟に調印し、日米関係を緊張させた。以後、日本陸軍は日中戦争の戦火に固執して、日米交渉を決裂させ、対米海戦に追い込まれてゆく。
もし、ノモハンでの大敗の事実が国民に知らされていたとしたら、「大東亜戦争」は、少なくとも開始しにくさを増していたであろうことは、私の持っている蔵書「週間朝日百科・日本の歴史」にも書いてある通りである。ノモハン事件と同じ様に戦力面で勝てるはずもなく負けると分かっている戦争に刈り出され、その様な戦争に疑問を持ちながらも自分が負けるとわかっていながら不条理にも部下に対して戦うことを命令し大勢死なせてきた。
彼の反戦思想で書かれた『人間の条件』などは、当時のマスコミには、取り上げられることもなかったものが、僥倖にも、三一書房の竹村一によって出版されたということである。
環境破壊、民族紛争、いじめ・過労死に見られる生命の尊厳の危機等に見舞われている現代は現代で、現代人が抱え込んだ深刻な問題が数知れずある。そのようななかで、限りない人間の欲望と人間が人間らしく生きること。哲学として「人間の条件」をどのように考えてゆけば良いのだろうか・・・?今、世界で起っている経済危機もそのような見地から見直さなければいけないのではないかと考えさせられるのだが・・・。
(画像は、映画「戦争と人間」完結篇のパンフレット。)
参考:
五味川純平 – Wikipedia
「有楽町0番地」の共同執筆者・松山善三と小林正樹が脚色、「黒い河」の小林正樹が久方ぶりに監督した。
撮影は「裸の太陽」(東映)の宮島義勇。「裸の太陽」の仲代達矢、「鰯雲」の新珠三千代をはじめ、佐田啓二・有馬稲子・淡島千景・南原伸二・山村聡らの多彩なキャスト。
1959年製作/201分/日本
原題:No Greater Love
配給:松竹
ストーリー
昭和十八年の満州、梶と美千子の夫婦をのせたトラックは老虎嶺鉱山に向けて走っていた。満鉄調査部勤務の時に知合い結ばれた二人は、友人影山の勧めで労務管理の職につく梶の任地に行くのだ。戦争に疑いをもち、妻を愛する梶が、召集免除を条件に自ら選んだ職場が、そこに彼を待っているはずだった。
しかし、現地人の工人達を使って苛酷な仕事を強いる鉱山の労働条件は、極度に悪かった。現場監督岡崎一味の不正に対抗し、同僚沖島や部下の現地事務員陳の助けをえて、梶の苦闘がつづく。折から上部より二割緊急増産の指令とともに、北支から六百名の捕虜が特殊工人として送りこまれてきた。半死状態の捕虜たちは電流を通じた鉄条網の中に入れられ、労働意欲をかりたてるためと称して娼婦をあてがわれた。工人の高と、娼婦楊春蘭の愛が芽ばえたのは、そんな条件の中でだった。
一方、朝鮮人の張命賛は、娼婦の金東福を使って、工人を脱走させる仕事で甘い汁を吸っていた。真面目な陳を金東福の色じかけで手中に入れ、弱点を握って鉄条網の電流を一定時間とめさせるのだ。牟田や古屋が日本人側からこれに加担していた。特殊工人と話し合って、現状での最善の状態を作ろうと努力し、梶は二割増産を達成させた。しかし、楽しみにしていた美千子との休暇は、張一味による脱走事件の発生で中止となった。張一味と結んだ古屋は、梶をねたんで再度の工人脱走を企てた。だが、陳は良心の苛責から、三千三百ボルトの電流の通じる鉄条網に自ら身を投じて死んだ。現場監督岡崎の非人間的な態度は、特殊工人の反感を買い、ある時、高をはじめとする七人の抗議事件をひきおこした。憲兵軍曹渡合の手で、七人は日本刀による斬首の刑に処されることになった。一人、二人と残虐な処刑が進行するうちに、それを見る梶の心理は激しく動いた。特殊工人たちの喚声の中で、遂に梶は「やめてくれ!」と声をあげて叫んだ。処刑は中止された。しかし、そのあとには、軍部に反抗を企てた梶に対する、恐るべき憲兵隊のリンチが待っていた。そして、半死半生で釈放された彼につきつけられたのは、現職免除の命令と、臨時召集令状だった。