こんにちは.
これから、どうなるか、分からなくなった時、私は、いつも、過去からの歩みを考えます。今が、アクエリアスの時代であり、ディスクロージャーの最中だ、と知った上で、地球上の人類全体の歩みを、見つめなおします。
東アジアのことを考えるときには、どうしても、中国を避けて通れません。
中国の皇帝は、秦の始皇帝から始まります。その秦が強大化する切っ掛けは、司馬錯が恵文王に着いた時でした。秦は、私の研究では、ユダ族を意味します。もちろん、古代イスラエルの流れです。
中国大陸で地上の支配者になったことを天に報告する場所が山東省の泰山です。その儀式が、封禅です。
始皇帝が泰山で封禅する直前に、始皇帝の下を離れた男がいます。徐福です。
さて、この人物は、このあと、3000人を連れて日本列島に来ますが、
そのとき、この列島(大八洲)には、どんな、統治体があったでしょうか?
簡単に言えば、このとき、天皇がいたのかどうか? あるいは、倭国の大王がうまれていたのかどうか?
こうしたことを、日本の学校教育で、きちんと教えるべきでしょう。 少なくとも、考えさせるべきでしょう。
答えは、まだ、きちんとした王権が誕生していなかった。 当然、天皇は、もちろん、大王もいなかった。
では、そこにヘブライ人はいたか? いました。しかし、まだ、明確な王権は誕生していなかった。
このあとに、 日本列島での原初の王権が誕生していますが、これは、どこで、どんな姿だったか?
時代が下って、後漢の光武帝のときAD57に、金印 「漢委奴王」が九州の北部にいたものに与えられます。 これは中国の後漢が公式に認めた「王」が、日本列島の九州にいたことを意味します。 このとき、関西や中部、関東はどうだったのか?
このあとに、 邪馬台国の卑弥呼の時代になります。彼女は、238年に帯方郡に使者を出します。
これは、倭人の国の支配者として、進んで、正式な倭国王として、魏から認めてもらいたかったのです。
以後の中国の史書では、ずっと、「倭国」です。 日本列島にある王権は、中華皇帝に冊封されたものでした。
これが隋書には、 「俀(たい)国」 とあえて書かれます。書かれたのは唐の太宗時代で、執筆者は魏徴でした。
で、このあと、日本列島では天武時代に、大王は自らを天皇と名乗り、国名を「倭国」ではなく、「日本国」にします。
この「日本国」が承認されるのが、 則天武后が皇帝(武則天)になった、周の時代、702年でした。
◎中華皇帝になくて、日本天皇にあるものは何でしょうか?
政治体制の継承権に関する思想では、 前者は、易姓革命。 後者は、万世一系。
易姓革命は、思想的には、孟子が打ちたて、現実には、秦末の、陳勝呉広の乱 が始まりでした。
日本の万世一系は、思想的には、不比等が日本書紀を編纂するときに生まれ、これが、国民に教育で強制されたのは、明治維新の後です。
日本天皇の家族(皇室)は、7世紀末に皇祖神アマテラスができる以前から、「何か」を伝える政治的な存在でした。それは、紀元前から、一つの精神を伝えてきた、と思います。
☆オバマ大統領が4月24日に明治神宮を参拝した後、宮中晩餐会で強調したのはそれでした。 日本列島に、最初に、「王権」が誕生した時、どんな精神であったのか。それは、現在の皇室も継承しているのではないか?
それは、「日本」の呼称を作り出した、天武(天渟中原瀛真人)の中に隠れています。
天武の最晩年686年の7月20日から9月9日までを、元号で、「朱鳥」としました。これは、天武の「思い」でしょう。(この短い期間に、草薙の剣が熱田社に戻った。 720年に纏められた日本書紀は、草薙の剣が、天武に祟った、と記します)
今、その「朱鳥」が出る時になったのではないか。 多くの日本の皆さんの心の中に、それが間違いなく生まれだしている と 感じます。