リクルート事件の最中、バブルで日本経済が舞い上がっているとき、
昭和天皇は病気で伏せられ、89年の今日、崩御されました。
アラヒトカミから、人間の天皇になり、日本経済を復興させた大帝です。
しかも、占領軍司令官のマッカーサーを「我、神を見た」と言わしめた、として
その「神威」は、戦後も、一般国民の心に、残り続けました。
その真実は、どうだったのでしょうか?
自分の御意志を明確に示されたのは、一般の理解では、三回のみ。
1 張作霖爆殺という、満州某重大事件で、田中義一首相に、
「お前の最初に言ったことと違うじゃないか」と、叱責したこと。
2 二二六事件で、青年将校たちに対し、
「速に事件を鎮圧せよ」。
3 ポツダム宣言受け入れ。
「(戦い続けるのは)もう、無理だと思う」
田中義一を叱責したことを、西園寺公望にとがめられたのちは、
以後、発言を控えていたが、陸軍が満州領有を画策する中、
実際は、この天皇は、満州事変の前まで、
中華民国の枠内で、満州の開発を支援しようとしていました。
昭和天皇は、満州で軍事行動を起こした石原莞爾が嫌いでした。
さらに、国際連盟脱退を宣言した松岡洋右、イタリア大使の白鳥などには、
より強い嫌悪感を感じていました。
二二六事件後、日本軍部の大本営は、宮中に移されたのですが、この天皇は、
陸軍が南京を攻撃するまで、その宮中には、いませんでした。
那須の御用邸にいったときに、そのまま軟禁されていたのが、真相のようです。
以後、日本の軍人・軍部を全く信用しなくなりました。
そうした中で、日本の軍部は戦線を拡大し、アメリカとの開戦にいたります。
その御前会議では、
明治天皇の歌を詠まれながら、やむなく、詔勅に署名します。
「四方の海 みな同胞(はらから)と思う代に、など波風の立ち騒ぐらむ」
国家主権者である自分の意志を無視して、中国大陸で軍事拡大した軍部。
その思い上った結果が、あきらかに、アメリカの罠に嵌ったものでした。
それが、戦後、平和憲法の起草を促した意思になっていきました。
すでに、崩御されて、まる22年。
今、天国から、この日本を、どうみているでしょう。
昨日、前原外相とクリントン国務長官は、「日米同盟の進化」を表明しました。
日米が本当に、対等の同盟国なら、まず、尖閣諸島の領有権について、
日本とアメリカ、そして、中国を交えて、二度と問題が起きなくなるように、
協議すること。
その席には、キッシンジャー元大統領補佐官(まだ生存中)を証人として、必ず呼ぶこと。
会議を公開にして、1971~72年に、この人物が、中国側に尖閣諸島の領有問題について、
どんなコメントをしたのか、徹底的に、明らかにすること。
その上で、日中間の国境を三者間で改めて合意し、二度と紛争が起きないようにすること。
日中平和友好条約と、日米安全保障条約を、東アジアの平和環境を創出するという、
共通の目的の上で、お互いに補完しあう条約に、変えていくこと。
これこそが、安全保障上の本当の「深化」。
前原には、そこまでの思想も覚悟もないでしょうが、誰かが、これをしないといけません。
スッカラカンのトンチンカン政権には、何も期待できませんが。
今日は、昭和天皇の崩御の日。
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この記事を書いた人
新井信介
1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。