私の文明論の大きな柱に、
「文明のスタンダード」 があります。
これは、原始の状態から始原の文明が始まった後、
人間であれば、その人の人種や民族(部族)、思想信条にかかわりなく、
身体の要求として、生存次元の状態から脱して、文明の利器を生み出し、
最終的に、不安なく、「快適な暮らし」を手に入れる段階をいいます。
これが、文明のスタンダード です。
生存次元には、 衣食住、部族の掟(最低限の教育) が、ありますが、
その段階から、特権的な王侯貴族が、強制的に人力(奴隷)を使うことによって、
以下の快適を得てきました。
① 一人一部屋 (プライベート空間の確保)、
② 常春 (空調)
③ 長距離通信 (電話・テレビ)
④ 長距離移動 (自動車、チケット予約)
⑤ 清潔な暮らし (蛇口からお湯)
これを、文明(科学技術と教育の発達・普及)によって、どの人間に対しても、
ハード としていきわたった状態が、 「文明のスタンダード」です。
2010年の段階をみると、先進国と新興国の人間は、ほぼ、この段階に到達しています。
地球人口の半分ちかくは、ここに到達した、と見ていいでしょう。 それがまた、
別の視点からいえば、環境問題の激烈な悪化をうんでいます。
このハード面の機材を大量に作り、供給するのが、工業化であり、
そのエネルギー源として、 20世紀までは、石油が主に使われてきました。
それが、今は、代替エネルギーが求められます。
また、この工業化の最終過程で、情報化が爆発的に進み、
途上国であっても、工業製品や科学技術に関し、最新情報が簡単に得られます。
現在、名古屋で開かれているCOP10では、 地球環境で、生物の多様性保護
が議題になり、これは、この人類のみの快適さを目指した「文明のスタンダード」の段階
が過ぎたことを意味します。
人間だけの快適さ 追求 がもたらした、環境悪化 と 生物種の絶命。
人間個々人が、自分の「喜び」として追求した、金銭や、国家らの名誉(大義)が、
人類自体の生存の基盤を、壊しているのでは、なんの意味もありません。
これが、この会議の根底にある、人類の共通認識です。
このとき、 個々の国家は、この人類の生存問題に、どう関わるのでしょうか?
特に、領土・領海・経済権益などは、どうみるのか?
人類にとって、<普遍的な価値>を自らの運営基準としない、国家や経済体は、
私たちが今後作り上げる共通のルールの中で、制裁を受けるのは当然です。
では、<普遍的な価値> とは 何か?
ここで大切なことは、国家も、宗教(神の概念)も、通貨も、人類が作り出したもので、
これは、私たちの成長・発展とともに、どんどん、進化・変容しているということです。
(「神も、わたしたちとともに成長する」と考える宗教が、ミトラ教でした。)
変容をもたらす、最大の要因は、「こうしたすばらしい実例がある」という、
事実の情報です。
これが、インターネットやコンピュータを使った情報環境の整備で加速します。
文明のスタンダンダード が達成された後は、一気に、情報革命が始まり、
このとき、国家と宗教が、急速に、支配的な地位を薄めていきます。
そして、通貨についても、代用物、代替システムが生まれてきます。
基準は、 すべて、個人と個人、そして個人と地球全体とが、
ストレートに繋がりあう関係になることです。 これは、新文明の段階です。
そのとき、どう繋がるか? どのレベルで繋がるか? ここが、もっとも肝心です。
自分自身が、繋がる相手先との間で、どんなものを確認するのか?
その繋がっている手ごたえ中で、自分の魂の変化、ココロの本当の喜びを、
再度、どの次元まで、感知、感得、自覚するかに、その人間の真価が現れます。
このとき、自分の喜びが、どこまで、国家の利益と不可分なものかどうか、は、
文明のスタンダードの中にいるか、それとも、 新文明の一員としての自覚にいきるか、
によります。
自分自身と、地域の住民自治と、国家。
この中で、国家を世界大に広げようとして、国家暴力をつかったのがアメリカ。
自国のなかに、統治できない地域・人間が多すぎて、常に国家に強権力を持たせ、
その権限の正当性のために、他国からお前たち(支配下の国民)を守っていると、
常にポーズをとらないと、体制が維持できないのが、中国です。
どれだけ人間と地球生命を喜ばせることができるか、 これこそが、その人間の名誉であり、
そうした人間を、守り育てる環境を提供するのが、進化した国家の本来の役目です。
そしてこのとき、国境はどんどん、消えていきます。
こう考えて、その進化した国家を、まともに実行・実現する国が、
人類と地球生命から尊敬を受けることになるのは、当然でしょう。
そして、その「喜ばせること」のみが、今後の、<市場>を生み出していきます。
「強圧」、「騙し」によって、自分の財産を奪われることを容認する人はいませんし、
そうやって得た「富」や「名誉」を、歓迎することは、まともな精神の持ち主なら、
ありえません。
だれが、まともなのか?
これを測る唯一の基準は、 現実のありようです。
戦後の日本は、人類史的にみて、極めて珍しい環境に置かれました。
国家暴力を ほとんどの国民が意識することなく、ただただ、繁栄を求め、
何が役立つか? どうすれば、もっと快適になれるか? こころから歓迎してもらえるか?
こうしたことを、 とくに、産業界が、真剣に考え続けてきたのです。
そして、製品つくりの中に生かされたのは、 目の前にいる人間、そして生き物と、
きちんと対話し、こころで、繋がろうとする感性で、 これは、縄文時代からのものです。
しかし、この感性が、地域つくりのなかでは、すっかり忘れ去られてしまってもいました。
こうした感性から生まれたもの、生きかた、やりかたのみが、新しい市場を作ります。
そして、個々の人間が集まってくらす、地域社会も、復活させていきます。
相手が如何に喜んでくれたか? そこに喜びを見出せる人間と、
相手を困らせたり、苦しめながらも、自分が手にした利益を誇る人間と、
どちらが、魂の質の高い人間なのか、比べるまでもないでしょう。
「新文明」の時代は、 この魂の質を、皆が、その人の振る舞い・判断の中に、
感じあう時代です。
今、国籍に関係なく、 心ある人は、みな、この中にいます。
ひとたび、この視点を得たとき、もはや、後戻りは、できなくなります。
アメリカにも中国にも、「新規の市場」は作れない。
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この記事を書いた人
新井信介
1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。