こんにちは。
麻生さん、本当、どこに行っちゃったの?まだ、現職の財務大臣のはずでしょ。安倍チンは、フランスで9月の内閣改造を発表だけど、財務大臣も変わるのでしょうね、きっと。
あと、小泉純一郎さん、講演会の中止が続ているようですね。孫ができて、喜んでいたはずなのに。
http://tyuubukou.blog.shinobi.jp/
ところで、「日本の伝統」って大声で言っていた日本会議や神道政治連盟の皆さん、江戸時代までの神社の社殿に、鏡が飾られていたかどうか、知っていましたか?
発掘品ではなく伝世品の鏡で最も古いものは、彦火明命を祀る籠神社にある前漢鏡で、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる、直系95mmの内行花文鏡です。籠神社には同じく内行花文鏡で後漢時代の息津鏡(おきつー)175㎜もあります。
終戦後、九州の旧い神社に伝えられた後漢時代の鏡が、多く骨董品屋に流れたことがありました。それを買い集めた人がいます。熊本の高天原研究会を主宰した吉田さんで、一時「ホーリーミラー」というHPを開設していました。彼の秘書は九大出の青銅器の専門家で、ここに旦那が総理になる前のアキエ夫人が来ていました。
日本天皇に対し、その尊厳とは、天意に通じる神秘性であり、地上世界で中華皇帝を越える、支配での正統性(御威力)があるとし、それを作り出す試みは、江戸時代、徳川光圀によって始まりました。
「光圀」の「圀」の字は、則天文字です。光圀は、不比等が、大宝律令をつくるとき、大陸にいた女帝の武則天、本名、武照(愛称で武媚娘)のことはもちろん知っていました。
その光圀がもっとも大切に保護を指令したのが那須国造碑です。ここには完全な唐代の中国語で国造りになったいきさつ書かれ、草壁皇子が急死した689年を示す、「永昌」の元号が書かれています。
その光圀が山鹿素行に命じて、赤穂の坂越にある大避神社に籠らせ、そこで書かせたのが「中朝事実」です。ここから当時の満州族の清ではなく、日本の天皇家の方が正統だ、との理論が始まりました。
今、日本の歴史学会は、卑弥呼が帯方郡に難少米を派遣した年を、実際に魏志倭人伝に記載されている景初2年(238年)は間違いで、景初3年(239年)が正しいとしています。中国の書物で、この卑弥呼の使者の派遣年代を景初3年と最初に書いたのは、唐の二代目太宗李世民に抱えられた、隋時代からの史官だった、姚思廉の梁書です。
それに対し、隋の煬帝に反発し、レジスタンスを繰り返していたのが隋書を纏めた魏徴でした。隋書の中で魏徴は倭国のことを倭と書かず、人偏に妥として、俀国(タイコク)と書きました。
日本国内では、720年に日本書紀の編纂で、姚思廉の梁書を参考にしてか、神功皇后の条に、魏志の一部をあえて以下のように書き込んでいます。
魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」
以後、卑弥呼の使者の派遣という事実は列島民には景初3年の理解が始まり、第6代将軍、家宣に仕えた新井白石がそのまま踏襲し、今に繋がっているようです。しかし、ここにこそ、日本の天皇の起源を解く重大な鍵があります。どうも唐の李世民の時代から、この卑弥呼の帯方郡への使者の派遣は、唐と日本国との両者が了解しあって、「真実を隠す意図」があったと考えられます。
何回も書きますが、中国で最初に決められた元号が、前漢武帝の即位を記念して作られた「建元」BC140です。一方、日本では入鹿殺害後に決められた、初めての元号がAD645の「大化」です。宝皇女の娘婿の軽皇子が即位し(諡号は漢風諡号が孝徳)、書記では、このとき「明神 御宇 日本 倭 根子 天皇」と宣命されました。この間、800年近い時間差があります。
しかも、この孝徳の補佐として「国の博士」になった二人(高向玄理、僧旻)が、いずれも曹操の血をひくものでした。この両者の先祖はホムダワケ(応神)の時代に阿智王とともに列島に来ているのです。
応神のときから前方後円墳が巨大化しているのは、ご存知ですよね。ホムダワケとされる人物の即位を知って、この曹操の子孫がわざわざ列島に入ったことになります。
そのホムダワケが「八幡神」だとしたのは、欽明時代の568年、三輪山の神官だった大神比義でした。
日本で大化の元号がつけられた645年は、唐の太宗李世民が高句麗に親征した年でもありました。その李世民が崩御したのが649年で、この年を日本書紀では「白雉」と二番目の元号ををつけています。李世民の才女(側室)だった武照は唐の慣例通り尼に出家した後、4年後に唐の三代目皇帝、高宗李治の皇后に正式になった。その半年後、列島では宝皇女が重祚しています。宝皇女が最初に即位した時のことを、光仁天皇時代の近江三船は、「皇極」と漢風諡号を送り、二度目の即位では「斉明」としました。
その斉明が崩御したのは九州の朝倉(筑後川の中流で地元では卑弥呼の都との説)で、百済の滅亡後、白村江の戦いに軍船を送る準備をしている最中で、661年の7月でした。重要なのは、日本書紀では斉明の長男とされている中大兄ですが、このときでも皇位を継がず(継げず)、そのまま倭国の軍船を半島に送ったものの、風向きや水流を読めない拙い戦法で、多くの東(あずま)の兵を失ってしまった。
中大兄(天智)が即位したのは旧暦668年元旦です。白村江の戦い後、新規に多くの百済系移民が列島に入り、彼らが現在の大津に定住した後、667年に大津京が造られ、新来の百済系の民に囲まれるようにして初めて即位したのです。
で、そのとき、熱田神宮では「草薙剣」が新羅道行なる僧によって盗み出されたとされ、その剣は、日本書紀では中大兄の弟とされる大海人(天武)の臨終年、686年に日本に戻ったとされます。
この年が「大化」「白雉」に次いで、3番目につけられている元号、「朱鳥」年です。
その次の元号が、大宝律令が完成した701年の「大宝」です。
さて、今、日本の神社ではその社殿の中に「鏡」が鎮座しているのですが、この習慣は明治になってからです。明治になって、現在の橿原に地に、橿原神宮が築造されたことはよく知られています。
どうも明治の新政府が廃仏毀釈と同時に、古事記の記載、特に神代編の内容が、その当時の現実空間にも生きて伝わっている、と、強引に物語を作ったようです。
こんなものはウソですが、しかしそれを信じないと、従わないと、大弾圧を受けたのです。その結果、高天原から天下ったニニギの曾孫の末っ子、カムヤマトイワレビコ、すなわち、神武の血を引くものが日本人だとしたのです。
では、明治までの神社はどうだったのか?それは、東大寺ができてから後の神仏混交の流れにありました。多くの神宮寺ができましたが、神社を管理するのは、社僧と呼ばれる人間でした。もちろん、「大化」以前からの伝統をもつ古い神社もありますが、その神社にしても社殿そのものは、欽明時代に仏教に伴って入ってきた大工たちの技術が活かされることよって、初めて建てられたのです。よって、早くて6世紀の後半に神社の建設が始まって、その結果「カミサマ」の場所が固定し、住所を持つことが出来ました。そのときまでは、どんな旧い神社であれ、その伝承は個々の「カミサマ」(これはほとんどが部族ごとのご先祖、なかでも英雄です)を口伝で伝えていたと思われます。もちろん、部族によって、独自の文字や記号を持っていたいたこともあるでしょうが、それが、統治者側全体での「掟」や「来歴」を語るものではなかった。
そのなかで、上記の伝世品の鏡をもつ籠神社には日本で最古の駒犬がいます。また、この神社の奥宮である眞名井神社の地籍が「中野」です。私の郷里、中野市には「倭」と書いて「ヤマト」と読む地籍があります。その地域の中で、千曲川に、高社山の西尾根の窪みから湧き出る小滝川が合流するところが、柳沢遺跡の地です。私はこの地こそが、原初王権「ニギハヤヒ」誕生の地と推定しています。
籠神社の祭神は、彦火明命ですが、おなじく、ニギハヤヒともされていますね。籠神社の地と、北信濃の「倭(ヤマト)」の地には、相当、強い関係があったと思われます。
日本では、今年5月から「令和」時代です。この元号の発案者の中西進さんは、万葉集から採ったと力説しますが、この方が40代初めにして学士院賞を授賞した業績は、万葉集と中国古典の関連性を調べた研究によってでした。
日本列島の王権の成立と、中華の皇帝権の推移との関連性。これをいかに隠すか。しかも、その中華王権にしても、西に興きた古代イスラエルのダビデ王、さらにバビロンの捕囚を解放したアケメネス朝のキュロス王、そして、アレキサンダーとの深い関連があります。
しかも、アレキサンダーが破壊したエフェソ神殿の神官は一旦はアレクサンドリアに逃れ、陶酔性の強い麻をもって日本列島にやってきている。それが忌部氏の起源ではないか。これが私の説です。その忌部は5世紀の雄略時代に今の徳島の鳴門に押し込められたが(大麻比古神社)、天武持統の時代に、祭祀の場に復権した。
それを明治維新後、伊藤たちが麻を栽培する三木家を監督するために、忌部神社を創設している。これは、月山を弾圧した明治政府が、それでも、宇宙と通じる白山神界との情報の交換は必要だとして、平泉寺白山神社を設置したのと、同期しています。
明治になって伊勢神宮を国家の中心神社にした。しかも、そこでは皇祖神アマテラスをまつる内宮には、伊雑宮の「太一」を持ち込ませなかった。
その一方、朝鮮半島のソウルにあった檀君廟を破壊し、そこに朝鮮大神宮を建てたのが明治政府です。そこで、皇祖神アマテラスと神聖不可侵のアラヒトカミ=明治天皇を祀り、それを、あらたに皇民に抱え込んだ半島の人たちに、お前も日本人なのだからと拝跪することを強制したのです。
そのとき、その朝鮮大神宮を拝んだ半島民は、昭和の初期から戦中、戦後に、列島に渡った人間も多いでしょう。しかし、残された人間は、どうなったのでしょうか?
今回、白頭山ツアーに参加した16名には皇族の関係者がいましたが、その人物も、この朝鮮大神宮建設の暴挙に対しては、国家・民族をあげて詫びなけれなならない、とも言っていました。
その暴挙を最初に嘆いたのは、平泉寺白山神社の第4代宮司の平泉澄だったことは、本欄ですでに指摘しました。
私たちは、半島・大陸・中東・ペルシャ・インド、さらに地中海地方や西欧の人たちとも、一緒に味わえる(楽しめる)、大きな物語が必要です。その第一歩は、まず、神武は実在なのかどうか?そして、なぜ、日本の歴史学会は、魏史に書かれている景初2年を、あえて無視するのか? さらに、なぜ、国の博士が、曹操の子孫だったのか?これを解きましょう。
その上で、ウマヤドです。「和をもって貴し」は、私たち日本人の心に根付いている、第一義の信条であり、大徳目です。彼の時代は、隋から唐の初めの時代ですが、ちょうどその死と言われる622年は、李淵によって唐が成立した5年目で、中国の紅幇(ホンパン)二代目の頭目だった徐渤興(徐世勣)が、李淵の息子の李世民の幕下に加わった翌年でした。この人物は太宗から李の姓をもらい受け、李勣と名乗る様になった。そして、李世民の才女の武照が654年に三代目高宗李治の皇后になることに反対しなかった唯一の重臣でした。そして668年9月に高句麗に、止めを刺した大将軍でもあったのです。
その翌年669年、鎌足は大津京で薨去しました。同年、李勣も死んでいます。鎌足は息子の不比等にどんなことを言い残したのか?私はこの物語を書いています。さらに720年、その不比等が4人の息子たちに何を遺言したのか?ここも重要です。不比等亡き後の日本の政界は長屋王の時代になりますが、このとき即位を控えていたのが首皇子(聖武)でした。その父の文武は即位前は軽皇子と呼ばれ、豊祖父天皇とも贈り名された人物でした。
この頃には、列島の主だった神社(代表、大三島、香取)には704年に粟田真人が武則天から持たされた大中小の海獣葡萄鏡が据えられていました。そして、ちょうど大陸で周が終わって712年に唐が戻ったあとの玄宗李隆喜の時代に、「八葉鏡(八花鏡)」が多く作られたのです。
明治政府の初代文部大臣になった森有礼は、伊勢神宮の内宮の八咫鏡を見たとされ、そこに、へブライ語で「我はありてあるものなり」の文字が記されていたと伝えられますが、それが、この玄宗の時代に造られ、刻まれたものなのか? それとも、明治なって鏡ごと日本で作られたのか? それは、まだ謎です。
三国志の時代、大陸では五斗米道が広がり、そこでは、鏡と剣が祭祀用具でした。この祭祀の習慣が日本列島に入ったことはすでに証明されています。それから400年が過ぎて、鎌足そして不比等の時代には、列島の縄文から続く精神性を特徴づけるものとして、勾玉を発見していたに違いありません。
720年に日本書紀が完成するとき「三種の神器」の文言があり、その筆頭になっていたのは八尺瓊勾玉でした。縄文の精神性の上に、この日本列島の中で形作られた王権に、ダビデ王以来の「国造りの想い」をすべて込めた。そうしてできた統治体の民が、私たち日本人なのでしょう。ここでは、いつ、どんな形で日本列島に入ったかは問わずに、持統が、皇祖神アマテラスを掲げた時点で、大八洲にいる人間全てを対象にして「以和為貴」とした。これが日本人の始まりです。