おはようさん。
昨日から友人(といっても、企業の社長さん2名)が来ています。当初、山梨からの帰りに、パワースポットの小菅神社に行きたいとのことなので、なんとか脚の回復を試みましたが、通常通りに歩けないと歩行時間が大幅に遅くなるで、今回は、断念して貰いました。
食品や発酵にかかわる仕事をされているので、ヒスイや姫川薬石にとても興味ある方でした.こちらの話をしました。
私の最新の関心事は、古代史で言えば、イザナギとイザナミが分かれることになった、黄泉比良坂(ヨモツヒラサカ)のこと。
日本の建国神話は、ここでイザナギが桃の実を三つ投げてイザナミを現実世界に出てこないように追い返して(捨てて)から、自分は「穢れた」といって、まず左の目を洗うと、そこからアマテラスが生れ、右目を洗うとツキヨミ、そして、鼻からスサノオが生まれた、という話になっています。黄泉に行き、そこに押しとどめたイザナミを、穢れたものと書いていることに、この列島の統治体ができた頃からの、自分にとって都合の悪いものを汚いものとして、見ないで済ます(隠す)「悪業・悪癖」があるのではないか、と思えてなりません。
アマテラス、ツキヨミ、スサノオの三神を、実在の人物の様に考えるよりも、一つの象徴として捉えるべき、というのが私の見方です。この三神の言うときに、イザナミはどうなった、といつも、心に引っ掛けておきましょうね。
で、昨日は、上記の友人と、「目で見る」という行為について、その重要さと同時に、おもわぬ落とし穴があることを話しました。
眼による視覚とは、視線という言葉があるように、直線です。眼は、画像として多くの情報を取り込んでいるものの、どれを認識するかは、意識がどこにあるかによります。
その上、視覚には、もともと身体構造上、死角に入ってしまう角度もあるのです。
つまり、眼とは、存在を、すべて認識しきれない。しかし、一点を見つめた場合には、とことん、その事実をつぶさに観察することができる。
では、この視覚を失った人は、どうなのか? 視覚がなくても、聴覚や嗅覚がありますね。
聴覚も嗅覚も。全方位に向けて感覚は伸びているのです。何かの存在やその行為や異変を感じ取るのは、聴覚や嗅覚なのです。
もし、視覚に加えて、聴覚も失ってしまったらどうなる? たとえば、ヘレンケラー。
生きている何かの存在の、イノチの鼓動や魂の響きのみは、直接的に感じ取れるのではないでしょうか。その存在は自分に対し、どういう立場なのか、つねに、真実を見極めるしか、自分自身の生存が確保されないところに、いるのです。
きっと、国家や、権利、マネー、なにより、マスメディアのがさつな情報操作とは無縁な世界にこそ、真の創造の世界の入り口がある。そんなことを話しました。
蛇足
それにしても、「かの方」は、選挙前の重要な時期にわざと吉本新喜劇の舞台に自ら上がったのですよね~。そりゃあ~Qたちは、マイティ-O-ルさんの、毒も棘も抜ことになりますよ。その上で、喜劇を演じさせることになりますわなあ~。