東アジア近現代史を再考するための必見ビデオ二つ。①田中角栄・大平正芳の訪中の真実、②孫文後継者になったばかりの蒋介石が受けた「恥辱」とそれを「雪ぐ」という意味。

中華人民共和国は2022年現在、世界最大の工業生産国になり、ロシアとともに、BRICSの幹事国ですが、その中国と日本国政府が国交を正常化したのは、1972年9月、田中角栄と大平正芳の訪中でです。この訪中がどういう国際情勢下で実現され、何が話されたのか、その内情を伝えるビデオが、2011年に公開されています。
この時の1972年の段階でも、また、ビデオ公開の2011年の段階でも、日中のアヘン問題は、政治の視野に入っていなかった。このビデオは、矢吹晋さんが監修し、「小異を残して(超えて)、大同につく」という両国首脳の苦悩がよく描れています。
田中角栄と周恩来の握手は、日中間の日清戦争以来の戦争状態の終結を宣言するものでした。
しかし、そこには、まだ、台湾問題や尖閣列島の問題が残されていました。
一方、この時の日中正常化が政治的に決まったことで、台湾に政治的本拠を置いていた国民党の蒋介石は、大陸の政治的回復(光復)を諦めることになるのですが、日本の陸軍士官学校で学んだ蒋介石が、孫文の大総統の地位を継承したばかりときに、政治的に「恥辱」と受け止め、「必ず雪ぐ」と決意した事件のことを伝えるビデオが以下です。これは、蒋介石の1928年5月11日の日記にあります。
これは、自分の思いが、日本軍の軍事活動を前に何もできなかったことを言っています。

〇すべては、日本国民に対し、神戸で遺言した孫文とその死と、そして、孫文の神戸演説の前に、北京の故宮を追い出された溥儀の処遇の問題(関東軍の画策;満州切り取りと復僻)から来ています。

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注意   以下は、まだ執筆中です。  参考まで・・・

1925年3月12日、初代の中華民国大総統の孫文が北京で病死し、その後継者はだれになるか?まだ、軍閥が各地に蔓延る中国大陸を蒋介石は、その年の1月に軍事制圧に乗り出した(北伐)ばかりでした。

その中の軍閥の一つが、関東軍によって育てられた張作霖の奉天軍でした。張作霖は1906年に、日露戦争のときに、日本軍に捕縛されたロシアのスパイでしたが、殺されるところを田中義一の懇願で、日本の関東軍が密かに抱え、日本の満州経営に使われ、この時点では、天津に移った溥儀に、満州に戻って皇帝になってほしい(復僻)と懇願する役回りをしていました。

しかし、それを知っていた孫文は、死の直前に、張作霖の息子の張学良を北京に呼び出し、「満州は、中華の一部」と念押ししていたのです。

<孫文の革命拠点 広州>

袁世凱が死去し、さらに、溥儀が故宮に押し込められてなお優雅に暮らす中華民国は、軍閥が各地で盤踞していました。それを倒す為に孫文は自ら軍事組織を持つことを考えます。孫文1923年8月に蔣介石ソ連に派遣して3ヶ月間軍制の視察をさせた

1924年1月20日広州の広東高等師範学校において国民党は第一回全国代表大会を開くと]「連ソ容共政策」が具体的になり政策実践のため軍閥から独立した党軍が必要であるとして軍官学校(士官学校)を創設した。その場所は広東陸軍学堂と広東海軍学校があった広州の長洲島にある黄埔で、5月には蔣介石が校長、廖仲愷が軍校駐在の国民党代表、李済深が教練部主任、王柏齢が教授部主任、戴季陶が政治部主任、何応欽が総教官についた。共産党員の中からも葉剣英が教授部副主任、周恩来が政治部副主任に就任し、毛沢東も、このとき、面接の試験官であった。

彼らを指導したのは、ソ連の軍事顧問団でした。蒋介石は、広州から北伐を始め、その軍には各地で革命を目指すもの、特に共産主義を理想をするもの(地主の存在を否定すもの)が次々と加わりました。

これに刺激され、各地で軍閥同士の争いがつづく中、1924年(民国13年)9月、第2次奉直戦争が勃発すると、呉佩孚が熱河方面へ奉天派の迎撃に向かいと、北京の防備が手薄となった。その機会をとらえたのが、クリスチャン将軍の馮玉祥で、10月22日、クーデターを決行して、大総統を名乗っていた曹錕を捕縛し、さらに清室優待条件の廃止を宣言して、廃帝溥儀を紫禁城から追放した。これがいわゆる北京政変(首都革命)である。溥儀は、ここでは、日本領事館に逃げこむしかなかった。

10月24日、馮玉祥は国民軍の結成を宣言し、自らは国民軍総司令兼第1軍軍長、胡景翼が副司令兼第2軍軍長、孫岳が副司令兼第3軍軍長となった。そして広州にいる孫文に対して北京への北上と今後の協議を呼びかけると、孫文もこれに応じることにした。同時に奉天派の張作霖や失脚していた段祺瑞も招致し、11月24日、段祺瑞が臨時執政に就任、新政権が始動した。

馮玉祥の呼びかけに応え、北京に向かう孫文は、北京に到着する前に、何としても日本国民に伝えたいことがあると立ち寄ったのが神戸で、それが、11月28日、神戸女学院での「西欧覇道の爪牙か(手先)か、東洋王道の干城(守り手)か」の演説です。

ここの時点で、日本政府(大使館)側は戸惑っていましたが、このまま孫文が、段祺瑞の新政権を承認し、そこで、大陸のすべての軍閥がそろってしまうと、自分たちの満州権益が壊れる考えたのが、日本の関東軍、なかでも、陸軍のトップエリートたちでした。

孫文は、神戸演説の後、船で天津に着きますが、体調がすぐれず、北京では、協和病院に入院しました。年が明けて、1925年、孫文は、「満州を含めた中華民国」のために張学良を北京に呼びますが、関東軍は、日本大使館で身柄を押えた溥儀を、天津の日本領事館に移す謀略を始めます。「皇帝に復僻させる。それには、満州を、中華民国から切り離す。」

しかし、この北伐は、4月に上海に達すると、蒋介石は労働者を嫌い、上海の資本家や財閥の声を聞き、都市の労働者の大弾圧を断行します。これは白色テロと呼ばれ、共産党の周恩来は、都市部での革命路線を捨てて、ソ連の指導から離れ、地方の農村部からの革命へと方針転換に入ります。蒋介石は、共産党は分かれたまま、軍閥討伐に向かいます。

1927年、孫文亡き後、中華民国の大総統の地位を確定するために、蒋介石は、孫文が宋慶齢と結婚したように、当時の上海で大財閥となっていた宋家との縁組でみで、経済的にも、その背景を得ようとします。この点は、宋家と縁組するために、上海クーデターをおこしたのでしょう。権力欲の強い、宋美齢は、蒋介石との結婚を同意していた(政略)ものの、母(宋母)からの承諾が下りない中、何とか、認めてもらいたいと、宋子文の手引きで、蒋介石は、神戸の有馬温泉にいる宋母に会い、ようやく認めてもらい、壱か月も神戸を散策した後、11月東京経由で、上海に戻ります。東京では、田中義一と会いますが、孫文が作り出した「中華民国(満州をふくむ)」の後継者との自負は、片時も崩れませんでした。

1927年12月、上海の梅龍鎮え、盛大の結婚パーティーは開かれ、孫文の後継者との認知が始まりますが、実は、ここから、蒋介石は、上海の暗黒街との関係を深め、そこを仕切る青幇の杜月生にささえられる存在になっていきます。

蒋介石が革命の後継者だと大きく自負するなか、孫文の最大の支援者だった梅屋庄吉は、孫文の志と三民主義思想、満州を含めた中華民国を全土に伝えるべく、各地に孫文の銅像を設置する作業に乗り出していました。

しかし、この時期、第一次世界大戦で連合国側に参戦した日本は、山東半島の青島を占領した後、そのまま進軍し、1927年には、済南方面に進んでいました。日本軍は、山東省の曲阜にある孔廟を目指し、日本こそ本物の「天子」がいる「中華」であるという物語の「現実化」に乗り出していたのです。

これは、水戸光圀が林羅山の死後、山鹿素行に「中朝事実」を書かせ、「大日本史」の編纂を水戸藩に命じ、そこに、明治維新の前までに、本居宣長の古事記研究、平田篤胤での精神論と、佐藤信淵による、国家として戦略を踏まえ、現実に、維新直後の軍事行動で台湾を併合し、イギリス公使パークスの言われるままに、日清戦争で朝鮮の優越権を清朝より奪取し、1902年の日英同盟を締結後、さらに、日露戦争の後、第一次大戦では連合国側に参戦し、ドイツの持っていた山東省の権益奪ったときでした。

このとき、中華民国の大総統だった徐世昌は国際連盟に、山東省が日本に取られたと訴えますが、日本は、国際連盟で人種差別撤廃を訴えるなどしたため、徐世昌は無力のままで、大いに面子を失っていました。

大総統になった蒋介石は、このときの日本と国際連盟の関係をよく知っていたでしょう。

しかも、孫文が言う、満州を含めた「中華民国」を認めず、かつて、日露戦争のときには、ロシアのスパイだった張作霖を捕縛の上、寝返らせ、満州での一馬賊から、南満州鉄道を建設する際の子飼いの軍閥に育て上げていたのです。

日本軍の犬となった張作霖はそれでいいのか、心が揺れ続けます。孫文の死去の直前、孫文から北京に呼び出された張学良から、「満州は中華民国の一部」と遺言が教えられたものの、関東軍の手の中で、溥儀を、満州に戻して、皇帝に復僻させるためのコマとして使われだしたのです。

一方、第二代の大総統になった蒋介石ですが、済南で、日本軍と遭遇したとき、中華民国軍とその指揮権を持ちながら、何も軍事的に手を出せなかったことを、絶対に雪ぐべき「恥」と感じていたのです。

そのころ、奉天軍閥の張作霖は、完全に関東軍の意思を離れ、満鉄の平行線を建設しだし、しかも、北京に向かっていたのです。

張作霖は、間違いなく、蒋介石の到着を待っていた。これが私の見方です。

しかし、1928年を5月末、蒋介石軍が北京に迫るなか、張作霖は、その軍に恐れをなし、戦わずに、奉天に引き返した、というのが、これまでの歴史教科書です。

そのとき、アジア号に乗る張作霖を爆殺すべく、河本大作は謀略を練り、溥儀の側近となっていた大陸浪人、工藤鉄三郎に、爆殺事件を中国人の仕業に偽装するための中国人を用立てさせていたのです。

日本軍、中でも関東軍の謀略。

現代のウクライナ問題。さらに、今年前半に安倍晋三によって騒がれた「台湾問題は、日本の安全保障の問題」発言は、台湾のみならず、大陸の中国人世界にも、戦火を引き起こすものでした。

こんな無思慮で、戦争拡大を望むような「安倍なるもの」に対し、もし、世界中のすべての中国人が、蒋介石に、「雪恥」を日記にしたためた意味を今、再確認したときには、どんな時代が広がるのでしょう。

日本の軍部(関東軍)、そして、自民党の中で清話会、なかでも、安倍晋三一派に、「いい加減にしろ」との天誅を下す日が近いのではないか。

大平正芳の系統を継ぐ岸田内閣が、5月に、バイデンを八芳園に迎えたのは、単に日本政府の意思ではなく、「オールチャイナ」での「決意」とその実行のゴーサインだったのではないか。

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。