こんにちは。とてても懐かしく、うれしい電話が昨夜、かかってきました。
私が、1994年から1997年まで、中国で小さなコンサルタント会社を経営していた時に、まだ、運転手をしていた彼から、電話がありました。その会社は北京で登記しましたが、活動拠点は北京と河南省の鄭州にあり、よく、私はその地方ででき始めたばかり骨董市場を回っていました。日本の平成天皇の訪中のあとで『南巡講話』どおりに、「先に豊かになれるものから豊かになれ」という鄧小平の号令で、全国の都市部での再開発(篩の建築物建て替え、道路の整備)が始まったときでした。
今回の電話の主は、その会社で3年面ぐらいに、当時、軍隊を除隊したばかりの若者が(今はあれから25年)、その人柄のよさから、北京中央政府の幹部、特に軍関係と温家宝首相本人との間で、いろいろの方面から、伝達やら何やらを私的に届ける役回りになったいた人間でした。
私は、97年に自分の会社を解散した後、2003年に再びあった彼に、やるのならブローカー的な存在ではなく、きちんと会社組織にして、従業員を抱え、税務をちゃんとした方がいい、とアドバイスすると、彼はその通り、河南省での石材の切り出しや、地方都市の博物館建設での展示の企画・設営で、徐々に実績を上げた人物でした。
まだ、令和になるまえ、神戸平和研究所の会長さんが洛陽・開封に行ったことがないというので、私が案内したとき、いろいろケアしてくれた人物でした。その時、鄭州はすでに中国国内でも新幹線ネットワークの一大拠点になっていました。(北京~広州線と、連運港~ウルムチが交差)。それ以前の2005年頃、彼には鄭州近郊の黄河まで案内してもらい、炎帝皇帝の記念像のところでは、「これができてから、大陸の運気が大きく動き出した、と皆中国人は感じている」と説明を受けました。
さらに、新井さん息子がいるなら、鄭州には鄭州大学以外に、中国で中国医学で最高のレベルを誇る中医学院があるから、ぜひここで学ばせたらいい、と言われ、真剣に考えておく、と答えたものでした。
その彼と、令和になってから、あの豪雨の後、連絡が取れなかった。それが、まさに昨夜、電話があり「息子さん、もう大学生だろ。中医学院の道、開かれているぞ」
いやあ~、うれしかったな。
自分は大丈夫で、それよりも、私の息子のことを気にして、電話してきてくれたのです。私の息子は今、大学二年生。コロナが落ち着いたら、一緒に中国に行こうとは言っていました。その倅は、まだ、2歳の時に私は中国に連れていき、天安門広場を歩かせ、さらに、万里の長城(八達嶺)を登らせたことがあります。
私が河南省で、気になっていたことが二つあります。
それは、歴史的なことでは、後漢を開いた光武帝劉秀(日本に金印をくれた皇帝)の故郷が、河南省の南陽であること。これは今回の電話の主の故郷でもありました。
さらに、その南陽から、湖北省北部の崗を越えて、長江水系の水を北の大都市北京まで水路で運ぶ、『南水北調』プロジェクトが、その後、どうなったか、気になっていました。うまく進んでいるとは聞いていましたが。
南水北調中線の給水量が150億立方メートルに–pekinshuho
中国「南水北調」プロジェクト、三つの数字が示す効果 (msn.com)
「引江補漢」プロジェクトが着工、「南水北調」と三峡プロジェクトを結ぶ | Science Portal China (jst.go.jp)
この点に関しては、2年前に見事に水路が完成し、今では、北京は水不足の危機はなくなりました。また、途中には、これまで何年にもわたり公害物質の垂れ流しで、まともな飲み水もない地域も諸所にあったのですが、この水路から供給される水で、そうした地域の飲料水も解決することになりました。
これは、『南水北調』工程の進展を伝える、新華社のニュースで知っていたのですが、現地の友人からの生の声で、その様子を聞くと、本当にうれしくなりました。
そして、私が、1990年代の後半から、大陸でよく流行っ歌を、思い出しました。
それが、『朋友別哭』
人海中 难得有几个真正的朋友 人混みの海の中で、本当の友を得るのは、難しいけど、君のことを、君の心を、ずっと思っている僕がいるを、忘れないでね。
这份情 请你不要不在乎「人海中 难得有几个真正的朋友
私は、カラオケでいつもこの歌を歌います。