WHOの渋谷さん、なんか舌鋒が緩んでしまいましたね。
でも、児玉龍彦さんには言及しました。
https://www.youtube.com/watch?v=GchjpeD7dg4h
おもしろい意見がたくさんあるツイッターがある。
https://twitter.com/F1024yama/status/1251750986139328514
https://mobile.twitter.com/qarmy_jp/status/1245855830697598978
ところで、今の私の関心事は、JFKと日本の関係。
昭和天皇がポツダム宣言を受け入れた後、本土決戦を言っていた陸軍の、
その軍族、すなわち列島の「軍産複合体」は、どうなったのか?
マッカーサーは彼らをきちんと解体するように指揮したのかどうか?
オズワルドは、厚木に降り立った後、CIAに眼をつけられた。
岸信介は巣鴨に入っていて、1948年12月23日の絞首刑から逃れて、
翌日、釈放されたが、その当時、パパブッシュは一体どこにいたのか?
岸は、1952年のサンフランシスコ講和条約発効のあと政界に復帰し、
弟の佐藤栄作も属する吉田自由党に入党するが吉田茂と対立して除名、
日本民主党の結党に加わり、保守合同で自由民主党が結党されると
幹事長となった。石橋内閣では外務大臣に就任する。
1957年首班石橋湛山の病気により臨時代理を務め、石橋内閣が総辞職
すると後任の内閣総理大臣に指名された。
日米安保体制の成立に尽力し、60年安保の苦境も乗り切った。
首相退任後自主憲法制定運動に努めた。
・・・というが、
首相退陣後の1961~63年、自民党内でどんな役割だったか?
戦後、日本政界を牛耳ってきたのが経団連ですが、その起源はいつか?
そもそも、岸が東條内閣で商工大臣の時にできた。
澄田ライ四郎が山西省に兵を置き去りにする前の頃かな。
ウキペデイアには、こうある。岸信介は
1941年(昭和16年)10月発足の東條内閣に商工大臣として入閣。
『米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書』に署名。
太平洋戦争中の物資動員の全てを扱った。
1942年(昭和17年)第21回衆院総選挙で当選、政治家として第一歩。
1943年(昭和18年)商工大臣として経団連の前身となる商工経済会設置法を成立させた。その直後に戦局激化への対応として商工省が廃止され軍需省へと改組。軍需大臣は東條首相の兼務となり、岸は軍需次官(無任所国務相兼務)に就任。半ば降格に近い処遇により、東條との関係に溝が生じた。
フランス帰りの英才、澄田中将は東條の軍事指導が稚拙で見るにたえず小ばかにする言葉が出てしまい、1943年に山西を拠点にする国民党の軍閥、閻錫山の支援に向かわされた。太原で終戦を聞くと日本兵を残したまますぐに帰国し、官僚体制を整備した。残された兵隊の中に城野宏がいた。彼らは4年間、共産党から守り、一時、独立国を築こうとした。
1943年に東條を非難した点で、岸信介と澄田は同じ立場だった。澄田は戦後の官僚組織と、その「天下り」秩序を作り上げ、その息子の智(さとし)は日銀総裁になった。
(城野宏の一連の著作は軍事や人間学を考える必読本ですが、そうした知識は、トラ、プ、習(というより王岐山)には常識でした。城野宏たちを捕らえ武装解除させたのは共産党の薄一波で、その次男が薄熙来。)
さて、もう一人、気になる人物がいます。
小泉純一郎の父で、進次郎の祖父、鮫島(小泉)純也。
この人物は防衛庁長官になったのだけど、これはJFK殺害の翌年。
ウキペディアには岸内閣時代の彼の動静に関する記載がない。
JFKは1963年11月に殺害された。小泉純也が防衛庁長官だったのは、
翌1964年、第3次池田内閣改造内閣からで、第1次佐藤内閣でも留任。
1964年12月4日、カーチス・ルメイの勲一等旭日大綬章叙勲を決める閣議に参加している。この叙勲は、東京大空襲や原爆投下に関与したルメイへの授与だけに大きな非難が巻き起ったが、ここで小泉は、
「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査によれば、当時ルメイは原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、サミュエル・モリソンによれば原爆投下はトルーマン大統領が直接指揮したものである」と説明し、佐藤栄作首相もそれに同意している。
叙勲の推薦は、防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎によって行われた。
ルメイは7日に防衛庁で小泉長官を訪問予定であったが当日は三輪事務次官が挨拶を受けている。
小泉純也は防衛庁長官時代の1965年、朝鮮半島に万一有事があった際、自衛隊が出動できるかどうかの可能性を防衛庁内部で極秘に探った、いわゆる三矢研究問題を暴露され、辞任に追い込まれた。
勲一等旭日大綬章って、4月29日にビル・ゲイツがもらったよね。
この叙勲理由を、国会で、きちんと説明して欲しい。
なんたって、ビルゲイツ財団は、【CENTER FOR GLOBAL HUMAN POPULATION REDUCTION…(地球人口を削減をする中心組織)】とシャーシャーと石に刻んでいるのだから。
で、その財団の日本の代理は一体だれか、というと、これを見て。
「人類益」ってなんなの? SDGs主流化の推進力っていうけどね。
https://bit.ly/2YtLTsuhttps://bit.ly/3d8Vrxr
2019年6月18日
ビル&メリンダ・ゲイツ財団日本常駐代表 柏倉美保子さん
そして、小泉純也が熱心だったのが、北朝鮮への帰国事業。
ウキには;日本と北朝鮮には国交がなかったため、帰国にまつわる実務は、
日本赤十字社(日赤)と朝鮮赤十字会(朝赤)の日朝両国の赤十字社によって行われた。
1959年12月14日に最初の帰国船が新潟県の新潟港から出航したのを皮切りに、帰国事業は、数度の中断を含みながらも1984年まで続いた。計93,340人が北朝鮮へ渡航し、そのうち少なくとも6,839人は日本人妻や被保護者といった日本国籍保持者だった。また在日朝鮮人には日本から地理的に近い朝鮮半島南部の出身者が多く、彼らにとっては、祖国ではあるが異郷への帰還となった。帰国船の費用は北朝鮮政府が負担し、事業の後期には万景峰号(初代)も使われている。
こうした中で、金日成王朝ができていったのですね。
よって、北とのパイプは、日本政界では、金丸信や田辺誠以上に、
小泉純也が濃くて強く、当然、純一郎もそれを引き継いだでしょう。
だから、乗り込んでいけたのでしょうね。
その時に同行し、一躍名を挙げたのが官房副長官だった安倍晋三。
今(4月30日)、中国の人民解放軍の戦車がどんどん北朝鮮に入っているようです。
習近平は、何を潰そうとしているかな?
プーもトラも「役者」だからね。三代目の金正恩、生きているかな?