アメリカ社会のハイクラスの人間、なかでも先祖が海賊だった人間たちが、大好きな映画に「パイレーツ・オブ・カリビアン」がある。
ここで主演だったジョニーディップが、なんと社会派に目覚め、自らプロデュースし、主演した映画がある。日本の水俣病を撮影した人物にスポットをあてた『MINAMATA(ミナマタ)』だった。
こんなメールが来た。
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新井先生
皇后への忖度か、この映画は日本では上映されていないそうです。
菊のカーテンの向こうで何が行われてきたのか、そろそろ白日の
下に曝す時でしょうね。
http://blog.livedoor.jp/remmikki/archives/5613603.html?jprank=2&cat=2
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この国(明治以来の統治体)では、悲劇の真相のリアルを語らせない。
国民に教えない。だから、反省しないし、また繰り返す。
映画『新聞記者』が、日本アカデミー賞を三部門で取ったが、
そのことを全く論評させない、日本の忖度メディア。
日本の忖度メディアは、どんなリアルな物語(ノンフィクション)でも、
権力者にとっての「都合のいい虚構」に組み換えで、切り取ろうとする。
そして、忖度情報のままで、国民を洗脳し、同調圧力をかける。
しかも、このとき、どんどん毒饅頭が配られる。
それは、何時から始まったか?
720年に日本書紀が完成。 「万世一系」という政治概念と
国家権威の誕生。 そして、不比等の死。
その前に何があった?
717年の遣唐使。
そして、
泰澄による白山開き。
これは、平城京の政権が、首皇子(聖武)の即位を前に、
政権自体が、天の意志と繋がり、列島のイノチの元である水の、
水分(みくまり)を、天皇の意志の下に隈なく行き渡らせる、
装置とメソッドにする儀式のはずだった。
この意味を、解っていたのが、藤原4兄弟の次男、房前です。
世阿弥の『能』にこの人物の出生を演目にした「海人(アマ)」
がある。香川の志度湾で、房前が「真実の母」を探す物語。
因みに、4兄弟とは
藤原武智麻呂(680年 – 737年)(藤原南家開祖)
藤原房前(681年 – 737年)(藤原北家開祖)
藤原宇合(694年 – 737年)(藤原式家開祖)
藤原麻呂(695年 – 737年)(藤原京家開祖)
房前の息子の一人が永手で、聖武(首皇子)崩御後の東大寺と、
光明皇后(安宿媛)が体系化した日本仏教を支えた。
平城京ができた710年、
不比等は、鹿島神宮からタケミカヅチを勧請した。これが春日社。
ここに768年不比等の孫である北家の永手はヒメカミ(ヒミコ)、フツ
ヌシ(物部)、アメノコヤネ(不比等)の三柱を合わせ春日大社にした。
当時は弓削道鏡が、聖武の娘、孝謙女帝の政権中枢に近づいていた。
だが、和気清麻呂が再確認した「宇佐の神勅」は道鏡の即位を否定した。
そして、
首皇子が犬養広刀自の娘に産ませた井上内親王の血が重視された。
彼女に皇子が生まれるのを期して、婿に(天智の孫の)白壁王を迎え、
井上を正規の皇后にすることで、大宝律令からの天皇の存続を図った。
元明の大嘗祭で「橘」姓を授かったのが犬養三千代。犬養のもつ血が、
「太一」のみならず、シリウス・アクセスの能力があるため、それを、
天皇に継承させようとした。
これは鎌足~不比等~房前からの隠されたミッションだった。
しかし、北家の永手が771年に亡くなると、式家の百川らが動き出す。
白壁(光仁天皇)と同族で幼馴染だった高野新笠にはすでに白壁との間
に二人の皇子がいた。いずれも、天智の血脈で、これは百済系だった。
井上を廃后にすることで、強引に長男の山部王に、天皇への道をつくる。
これが引き起こした事態は、単なる、権力争いの次元に留まらなかった。
問題は、天智自身が百済系であったこと。これはユダ族ではない。
へブライの系統でもなかった。高句麗を起こした朱蒙(東明王)が侍婢
に産ませた子が殺されないで成長し扶余王となった。伝説ではそれが百
済初代の温祚で、仇台のとき半島にきて公孫度の娘を得て王権を築いた。
(新羅=ユダの純粋派、高句麗=ベニヤミン、秦族=ユダの原則派。)
公孫康が204年に築いた半島の帯方郡は238年(景初2年)魏に接収され、
以後漢人が多く集まり百済王を建て、西晋滅亡後、東晋を正統とした。
355年前燕が高句麗を冊立すると、371年東晋は百済の近肖古王に命じ、
平壌城を攻めさせた。百済の猛攻で故国原王は矢に中り死去。この功績
で百済王は東晋から正式に〈寧東将軍領楽浪太守〉に冊立された。以後
百済は大いに中華文書を学び、そして書いた。その中に応神時代に列島
に入り、応神の皇子ウジノワキの儒教の師となった王仁博士がいる。
常に、地上の人間世界の秩序と権力を重視し、その中で、自らの利権を求め、それを法律で固めようとする。法律を天に合わせて変えていくのではなく、一旦できた、自らの利権の為に運用する。
百済の人間は、地上世界の権力の枠組みをよく見つめ、その中での「利権の奪取・確保」を最優先するので、素の状態で、自分だけでは、天上の「太一」にも、シリウスにも繋がれない。
山部王(桓武)の弟の早良王は母方が下級貴族(高野新笠の侍女?)であったために立太子は望まれておらず、761年に出家して、東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。
しかし、高野新笠が藤原百川と組んで「犬養」である井上を廃后にした措置を、天の声が聴けなくなると危惧し、嘆いた。
光仁の死後、桓武(山部)は、交野で「郊祀」を行い、百済系王朝誕生を祝い、ここで遷都を言い出した。天と繋がれない王朝。シリウスアクセスの出来る、犬養=「橘」の井上を廃后にしたことで、国家権力の周囲では、個々の問題に、リアルでの解決策が何も見えなくなった。
桓武による長岡京建設で凶事が続き、さらに平安京を襲ったのは、全国的な反乱だった。その代表が、アテルイだった。
この次第を知った桓武は、井上を生涯、弔いつづけた。それが御霊神社になった。
平安京では記紀神話が強調され、ホムダワケ(八幡)やウマヤド信仰も起きるが、そこには、いずれも、虚構の物語のフィルターで屈折され、真実は伏せられ、天意を理解する術は曇ったままだった。
記載された物語のみを絶対とすることが、権力からの「毒入り」を加速する、という「装置」になった。
それに対し、天空の「太一」や「シリウス」の情報を下すのが、白山。
そこにピュアに繋がるものは平安貴族にとって厄介者ものになった。
不比等が、日本書紀をつくってから、1300年。
それを絶対の事実と言って、マネーの悪神に取り憑かれて、150年。
戦後はさらに米国覇権の下に隠れ、陰から画策していた亡霊たち。
今の政権には、「天意」という概念はなく、言葉自体も消えているのでしょう。