心象世界の現実化「この世は複素数」。そして、日本列島での「咋人」と「生口」。

1)これからの日本列島を、どうすればいいのか? 単純な、国家論、国家対国家の外交論では何も、未来が見えない。
 明治になってできた中央集権の国家体制で、さらに、戦後も続いた、皇国日本の経済最優先の統治体。
マネーを生み出すことをすべてに最優先するとき、人間は、どんどん痴呆化している。
なかでも、これまでの体制・制度のなかで、マネーを追いかけるとき、どんどん、人間が狂ってくる。
過剰な都市化・工業化・電子化は、 人間個人の尊厳を傷つけるだけでなく、
日本の場合、人間自身の本来の、神の一部である、主体性・創造性を、どんどん減衰させています。
本来、国家(統治体)など、天意とは別にできた、人工物で、絶対のものでなく、常に相対な存在なのに、
日本人の場合、国家や統治体を語る時、そもそも、そこと自分との関係につき、その意味すら明確に分らないまま、
国民権力のありようを、まずは、現状を肯定するように、思考のタガがはめられている。
その中で、自分がどうしようない状況に追い込まれたとき、イノチをかけて本気になって抗議するよりも、
諦念になり、自らの死を選ぶものが多い。
私は、これまで、日本列島そのものが完全に企業社会になり、その中で、個々の人間に対しては、「社畜」という言葉を生んで、そうした現状に無思考の人間に、人間性が侵される危険を警告し続けてきましたが、どうも、もっと深い次元での、危機意識が必要になっています。
 人間と人間社会の闇の存在を暴かないと、今の日本の閉塞状況に、未来にむけた光が射しこまない、と感じているのです。
ここまで、腐りきっている権力の放銃を許す、こんな現実(支配従属関係)をどうするか?
 
それには、今の現実世界の中での対処と、 意識の世界からの対処が必要だ。
で、どうすればいい? 三次元世界での 人間の存在を、その次元から、根本から考えみようと。
 
まず、
 ① 「この世は、 複素数で出来ている。」
  
この理解の上で、現実を言う「実」について、 数学で、次の二つの真理から、とらえ直す。
 
 ② マイナス かける マイナス  は、 プラスに変換する。
    -1   ×  -1  = 1     ・・・しかし、 これらは、いずれも、実数の世界でのこと
 
それに対し、人間の心は、未来を創り出すエネルギーでもあるので、これは、どう捉えるか?
 
 ③  虚数は、 ルート √-1 は、 4乗すれば、 実数の 1 になる。
       しかし、単に、急いで、実数を求めれば、2乗で、-1 になる。
 これは、心の世界を、虚数の世界とすれば、何かの法則が見えてくるのではないか?
2)飯山の戸狩にある、 株K2Oの、マイ田んぼ。 この場所は、ほんとうに美しい。
昨日のバーベキューも楽しく、たくさんのズッキーニを持って帰った。
今日は、朝、小布施の「珈茅」に行ってから、直売所を巡って、「竜王荘」で須賀川そばを食べ、「馬曲温泉」。
飯山のアジサイ寺をみんなで見て、帰宅。夕刻は、 中野市の名水を汲んできた。
夜9時は、NHK特集「サピエンスが、どのようにして日本列島にたどり着いたか」 を見た。
先週の東京皆神塾に、財界官界からも支持される、戦後の国家戦略をかたる知識集団の大物さんが来ていました。
私は、日本列島にできた統治体の始まりと、その特質、さらに、明治期に、生まれた「国体」について話しました。
そして、今、なぜ、こんな惨たらしい国になっているのか?
これは、権力者に対し、 法律が機能しない国を、そのまま、おとなしく受け入れる国民性が、どうしてうまれたのか?
それを、縄文人と、大陸の「文明」人との交流・混血が繰り返された実際の現場を、想像することから、その真因を検証する。
 昨夜の仲間との研究・討論のテーマは、これでした。
で、結論です。
 日本列島に生きる人間の本質を考えるとき、今、「あること」を基準にしてみると、
 明確に、二種類の人間がいる のではないか? 
 それは、「咋人」と「生口」という、言葉に示されるのではないか? 
この世に肉体を持って生まれた人間。しかし、常に、あの世のことも、繋がっているものとして、
自らの 「生」をとらえた時、 それは、「生死一如」の悟りに、なるのですが、
これが、 現実しか知らない、暴虐遺伝子の人間からすると、彼らは、どう映るのか? です。
これは、人類史のタブーでしたが、今は、そこまで視野に入れて、人間の心と社会規範(ルール)作りを語らないと、
どうも、正解は出てこない。
とりあえず、今日のところは、ここまで。
そして、以下は、ウィキペディアの記載です。・・・本質は、上手に外れていますが。
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生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
107年(後漢永初元年)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、捕魚者など何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。
生口は倭国だけのものではなく、例えば高句麗の広開土王碑に、396年、百済が高句麗に大敗したため生口を高句麗へ献じたことが見える。また高麗史(高麗史 十六 世家巻第二十八 忠烈王一 忠烈王元年(1274年))によれば、文永の役(1274年)で高麗に帰還した金方慶らは、日本人の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。(侍中金方慶等還師、忽敦(忻都)以所俘童男女二百人献王及公主)

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。