二二六、西安事件の翌年1937年盧溝橋事件前後に大陸に日本兵として送られた農民がそのまま残り、101歳になった今も現役の医師をしている。何を体験し、何が医師になって残る意志を固めさせたのか?

皆さんこんにちは。

8月6日、テレビ朝日は、以下のような番組を放映していました

【シリーズ終戦特集②】中国に生きる101歳の日本人医師 – YouTube

2015年元旦、イスラム国がシリア・イラク国境一帯に勢力を広げる情勢の中、平成天皇(当時)は異例の談話を発表しました。「満州事変からの歴史を振り返ることは極めて重要なことだ思います」

さらに、この年(平成27年)の歌会始で詠まれた御製が、「夕闇の迫る田に入り 稔りたる 稲の根本に鎌をあてがう」 でした。

1931年9月満州事変を起こした首謀者石原莞爾は、満州を五族協和の共和国にしようとしましたが、日本の軍部はそれでは日本に社会主義の革命が及びかねないと石原を罷免し、満州を日本と同じく君主国にすべく、故宮を追い出され天津で隠居暮らしをしていた溥儀を担ぎ出し、1932年満州国皇帝に据えました。溥儀の天津脱出作戦を指揮したのが土肥原賢二で、その作戦の実行者が阪田誠盛(しげもり)で、彼は後に陸軍の特務「阪田機関」となりました。

しかし、それをリットン調査団が認めず、日本は国際連盟脱退の道を選びました。

日本はすでに併合してある朝鮮に続いて、満州国を兄弟国とし、そこに、莫大な建設投資を行いますが、満州より大陸内部へと軍事侵攻をもくろむ日本の軍部は、独自資金の確保に、満州占領下の農民にアヘン栽培をすすめると同時に、河北一帯に爆撃を繰り返しました。

その前、1927年の上海クーデターで蒋介石に追われた共産党員たちは、江西方面に退避し、後に「長征」と呼ばれる逃避行に入った。満州事変から満州国の建国・日本の国際連盟脱退 当時の共産軍は、ソ連のコミンテルンの指揮下にあったが、そこから脱し、毛沢東の軍事指揮権を確立したのが、1935年1月15日からの3日間、貴州省遵義県(現遵義市)でひらかれた遵義(じゅんぎ)会議です。
長征の途中、中国共産党は8月1日、南京の国民政府に対して八・一宣言を出して、抗日民族統一戦線を呼びかけたが、このときはまだコミンテルンの反ファシズム人民戦線結成に答えたもので、ソ連を背後に控える陝西省をめざしたものでした。長征は危機的な状況を切り抜けて、10月に陝西省呉起鎮に到着した。ここなら国民党の軍事的影響から脱することができ、毛沢東の名声と権力が固まった。

この1931年から1936年まで、日本国内でも動乱が続きました。また、中華民国内での蒋介石の権力が急速に拡大した時期でした。蒋介石の妻の宋美齢が、アメリカで日本批難の大演説もしました。しかし、蒋介石自身の政治力を支えていたのは、上海のアヘン市場を取り仕切っていた青幇マネーでした。ここと裏で関係を持って、満州産アヘンの販売ルートをひらいたのが阪田機関でした。この時点で、蒋介石にとって満州とは、孫文が辛亥革命前に「華外の地」と言ったように中華ではなく、すでに日本国のものと割り切り、それ以外の中華民国内での絶対支配権を目指して共産党の掃討作戦を繰り返していました。

(参考;孫文・蒋介石・杜月生、さらに毛沢東らの行動と中華意識を知る格好の本が、安能務『八股と馬虎』講談社文庫)

実は、陸軍が起こした満州事変の後には、海軍の陸戦隊が上海を急襲したのですが、このとき、和平飯店にあるサッスーンの事務所から大量の金塊を押収し、それをヒロヒトからの密命として、国民党側へは陳立夫に、共産党へは周恩来に届くように、極秘の手配をしていました。これは阪田機関とは全く別の動きでした。

張学良が戦わずに逃げましたが、そのときは彼がキリスト教徒で、バチカンからの何かの情報があったのでしょう。張学良はイタリアに向かい、ムッソリーニに面会しますが、その翌年1934年には日本から笹川良一がバチカンに派遣されています。ここではある画策が話されたようです。中山法元氏によると、戦前、上智大学の神学部教授はそのまま駐日本国バチカン大使として、いつでも皇居に出入りできたといいます。

日本国内では陸軍と海軍の対立が加速する中、1936年2月に起きたのが二二六事件です。このとき、昭和天皇の実子、ツグノミヤ和仁がバチカンのピオ11世のもとに派遣され、バチカンに残っていたビザンチンの亡命政権の最後の皇帝の地位についたのです。

蒋介石は青幇の麻薬マネーで権力をさらに固め、日本軍との戦闘よりも、共産党の掃討に熱心で、各地に中国国民軍の兵士を派遣し、それを督戦していました。1936年12月12日、西安に来ていた蒋介石本人を、張学良(張作霖の息子)と楊虎城が身柄を拘束する西安事件がおきました。その時までに、張学良自身がバチカンに行っていたことが重要です。国民党の総統が捕まるという緊急事態に、急遽、南京から宋美齢・宋子文らが来て、さらにそこに延安から周恩来が加わります。

このとき、周恩来が蒋介石に会った時の第一声が、「校長、お久しぶりです」でした。周恩来は、1924年黄埔軍官学校時代(第一次国共合作)のことを意識させたのです。(この事件を仕掛けた人間は、一体誰なのか、今でも謎とされますが、日本軍の大陸での軍事行動を嫌った人間であることは間違いありません。)

この西安事件の勃発前、ヨーロッパから帰国した張学良は共産党関係者と会っていました。張学良は、2月21日と3月3日に中共中央連絡局局長李克農中国語版と、4月9日には周恩来と極秘に会見し、9月下旬、両軍は「抗日救国協定」を結び停戦することが極秘に決められ、この時点で、対蔣介石クーデターの構想などが練られていたと最近の研究では言われます。

孫文を大総統にして、1912年に中華民国はできたけれど、袁世凱が実権を握り、それを排除したあとも、各政治家が政争を繰り返し、第一次大戦では、ドイツが持っていた山東の権益は中華民国に返還されることなく、そのまま日本軍に引き継がれ、政治家が軍閥化し、国家としては分裂の危機でした。そのとき、中華民国の国家の枠を立て直すためにできたのが、1924年の広州での黄埔軍官学校でした。そのとき、蒋介石は校長。周恩来は政治部長でした。西安事件の時は、すでに孫文はなく、あれから12年以上が過ぎていました。

西安で、張学良が言ったのは、中国人同士が戦うのではなく、今、大陸に入り込んでいる日本軍とまずと戦おうと。これが第二次の国共合作です。張学良のバチカン行きなどで、そう言わせるだけの世界観(国際情勢理解)と、資金(金塊)の用立てがありました。その資金(金塊)の存在は、実は満州事変の翌年、犬養毅首相にチャップリンに面談するときに「満州開拓資金がある」と伝えるように託されていたのです。しかし、それは犬養殺害で表に出ないままとなっていたのです。

満州事変から5年、515事件から4年以上経って、西安では、「満州は中華民国の枠内で、開発に当たって海外勢力では日本国に優先権をあり、そのための資金も供与される」との話が生きていたのでしょう。

しかし、その資金は1930年の時点で、BIS(国際決済銀行)の管理下にあったが、日本国による満州国成立によって、満州は中華民国から切り離なされて、日本の兄弟国となった以上、すでに日本国の手には届かないものとなっていたと思われます。この段階で、軍事費をどうしても欲しい日本軍は、マネー代替となるアヘンの栽培を満州のみならず、イランやアフガンでも始める計画を作り、それを国策商社(三井・三菱)に指導し始めたのです。

こうした中で翌年1937年の7月7日、日中の軍隊が北京郊外で激突する盧溝橋事件が起きます。すでに満州を押え、日本本国とは関係なくアヘン栽培で軍事費を稼ぎ出すことに慣れきっていた関東軍にすれば、巨大市場の上海にアヘンを売りさばく独占ルートが必要で、このとき麻薬の交易所でもあった天津を押える必要があったのです。

このときの銃撃戦から日中間で本格的な戦争が始まります。河北・河南での日本軍の無差別爆撃が加速し、それに怒った中国民衆は、大陸に入り込んでいる日本軍だけでなく、さらに一般の日本人に対しても憎悪を募らせました。ここに及んで、蒋介石の国民党と、毛沢東の共産党は、正式に抗日民族統一戦線の結成に合意したのです。

この時期、日本では大陸への派兵を強化し、その中の一人が岡山県真庭市の農家の青年、山崎氏でした。彼が山東で見たのは日本軍の残虐さでした。

日本軍が「日本鬼子」「東洋鬼」と呼ばれるように、どう猛な殺人鬼になった原因の一つが、盧溝橋事件の直後に、吉林省の通州で起きた日本人住民虐殺事件でしょう。これは共産軍の中の過激分子の仕業で、現地に広がっていた日本軍は怒り、さらにゲリラのテロがどこから出てくるかわからないという恐怖におびえ、戦闘とは別に、無辜の一般住民を殺害する事件が続出していたのです。

山崎氏は凶暴化する日本軍から逃亡し、山東の済南で、乞食の物乞い暮らしをしていたが、それでも、日本人である自分を助けてくれる民衆がいることを知りました。このときの中国民衆の心にあったのは、何でしょうか?

山崎氏が派遣された山東半島は、ベルサイユ条約後の1921年、ドイツ権益をえた日本国が青島に進軍し、さらに、孔子の生誕地、曲阜まで占領したのです。そのとき、多くの桜の木を植えました。表面は善政を敷くように見えましたが、盧溝橋事件後は、現地いた日本兵が明らかに変わりだしていたのです。

その日本軍を離れ、物乞いをする日本人を、中国民衆は、殺さなかった。ギリギリのところを救い続けたのです。その感覚、感情、判断は、どこから来たのでしょう。

遠い昔、孔子の生きた2500年前、さらに、その100年後の孟子、墨子の時代からの、天と、人間社会、そして、人間個人の関係を、よく知っているのでしょう。

大衆に積極的にアヘンを売りながら、みずからの結社員の結束について、「墨子の精神だ」とうそぶいたのが青幇。それを、いまだに、そのまま、その言葉を受け止める、浅薄な自称知識人が日本列島には多くいます。特に、満州を捨てて、フィリピンに向かって、さらに、そこに隠していた金塊を台湾に運んだ人間と、その関係者に、多いのです。

アホの極みです。

一方、山崎氏を助けた中国の民衆にあったものは何でしょう。博愛を説く墨子の心の深さは、どこにあったのでしょう。自分個人の利益だけを考える人間にからは、けっして生まれることはないものでしょう。人間としての尊厳と可能性をどこまでも信じ切ることから生まれているのです。

ぜひ、このビデオをもう一度、見てください。

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この記事を書いた人

新井信介

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。