世界構造を知る上で必見です。ロシアRTの「秘密組織の背後にあるもの・・・イエズス会」

秘密組織の背後にあるもの。・・・イエズス会 (前・後)
ロシアがきちんとまとめています。
ロシア革命の裏側にいたイルミナィのさらに奥を、
KGBプーチンがフリンたちと一緒に調べあげて纏めたのでしょうか。

(前編) https://www.youtube.com/watch?v=Oy0GiFqei1I

(後編)https://www.youtube.com/watch?v=lSpMB4aAQLY

後編には、世銀で「パワートランジッション」を研究していた
カレン・フーデスが出てくる。彼女は、4年前に、
山下奉文がビクトリア女王の兄の息子だと証言していました。

問題は、この動画には、
日本のことが出てこないこと。

イエズス会のザビエルが、何を情報として持ち帰ったのか?
さらに、
イエズス会が、1772年に表の舞台から消えたが、
ここで指摘しているように、この間、多くの謀略組織を作り、
1815年にウィーン会議のとき、再び姿を現します。
このとき、スイスが、永世中立国になっていた。

列島側のとの関係を言えば、以下が注目されます。
柳沢吉保の「貨幣改鋳」。
山鹿素行の「中朝事実」執筆。
大石内蔵助の切腹のあとに、「日田隠し」の始まり。
1700年代中ごろから、列島から金塊流出の始まり。
 薩摩藩、隼人、長崎奉行、日田代官、サンカ大元。

1760年以後、ボルネオ島での客家「羅芳公司」による金塊蓄積。

この日本側の秘密を、ロシアはまだ知らない。
 ・・・というより、まだ出せないのでしょう。

「悪魔」の意志は、どこで入ったか?
325年、「三位一体」をつくりだしたときからか。
395年、アレクサンドリア図書館を焼いたとき?
405年、ラテン語聖書「ウルガタ」の完成のとき?
あと、生母マリアを、神と同格の聖母にしたことか?。

ローマ総主教のゲラシウスが自らを
「イエス・キリスト」の唯一の代理人といったのがAD495年でした。

1000年の中世(教皇権は高まった)
このあとに、宗教改革(ルター、カルバン、エリザベス1世)

☆ザビエル関連です。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。
1534年8月15日、「モンマルトルの誓い」・・・イエズス会の成立
ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が神に生涯を捧げるという誓いを立てた。
1541年4月7日にザビエルはリスボンを出発(この日は35歳の誕生日)。
8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過し、
1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教。
1545年9月にマラッカ、1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、
多くの人々をキリスト教に導き、マラッカに戻った1547年12月に、
鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人と出会った。

1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、
1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、そして、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。
一行は、明の上川島(広東省江門市台山)を経由し、
ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸した。
その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に鹿児島市祇園之洲町に来着した。
この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。
1549年9月、伊集院城(一宇治城/鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。
ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。
しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。
1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。
周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い、同年12月17日に周防を発つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。

失意の京滞在 山口での宣教
1551年(天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。
しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。
また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。
これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。
ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。
1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。
これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。
また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。
◎豊後国での宣教
ザビエルは、豊後国府内(大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)。
◎再びインドへ
日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にし、一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。
1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
◎中国布教への志しと終焉、死後列聖まで
1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳。遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。
1553年2月にマラッカに移送し、さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がハビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。
棺の開帳は10年に1度行われ、最新の開帳は2014年11月23日から2015年1月4日の間に行われた。
右腕下膊は、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。
以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。この右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ、また2018年にはカナダに運ばれ[7]、腕型の箱に入れられたまま展示された。 なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。

<1815年のウィーン会議のあと>。
1840年、アヘン戦争
☆このあと、日本の初代フリーメーソンのジョン万次郎
1841年㋀27日(天保12年1月5日)中浜万次郎(14歳)が宇佐浦(土佐市宇佐)で乗った船で遭難。
伊豆諸島の無人島の一つ、鳥島に漂着し、わずかな溜水と海藻や海鳥を口にしながら143日間を生き延び、同年5月9日(1841年6月27日)万次郎達は、アメリカ合衆国の捕鯨船ジョン・ハウランド号が食料として海亀を確保しようと島に立ち寄った際、乗組員によって発見され、救助された。
1843年5月7日、ジョン・ハウランド号は捕鯨航海を終え、船長のウィリアム・ホイットフィールドの故郷であるマサチューセッツ州ニューベッドフォードのフェアヘブンに帰港。アメリカ本土に渡った万次郎は、船長の養子となって一緒に暮らしだす。
1844年(弘化元年)にはバートレット私塾で英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学ぶ。熱心に勉強し、首席となった。民主主義や男女平等など、日本人にとって新鮮な概念に触れる一方で、人種差別も経験した(ホイットフィールド家が通っていた教会が万次郎の立ち入りを拒否したため、ホイットフィールド家はユニテリアン教会に移ったとされる)。
1850年12月17日、知己であった宣教師で新聞を発行していたSamuel C. Damonの協力もあり、上海行きの商船サラ・ボイド号に伝蔵と五右衛門と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。
嘉永4年(1851年)2月2日、薩摩藩に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、翁長で牧志朝忠から英語で取り調べを受けたり、地元住民と交流した後に薩摩本土に送られた(7月30日着)。
海外から鎖国の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。薩摩藩では中浜一行を厚遇し、開明家で西洋文物に興味のあった藩主・島津斉彬は自ら万次郎に海外の情勢や文化等について質問した。斉彬の命により、藩士や船大工らに洋式の造船術や航海術について教示、その後、薩摩藩はその情報を元に和洋折衷船の越通船を建造した。
斉彬は万次郎の英語・造船知識に注目。薩摩藩の洋学校(開成所)の英語講師として招いている。
薩摩藩での取調べの後、万次郎らは長崎に送られ、江戸幕府の長崎奉行所等で長期間尋問を受ける。長崎奉行所で踏み絵によりキリスト教徒でないことを証明させられ、外国から持ち帰った文物を没収された後、土佐藩から迎えに来た役人に引き取られ、土佐に向った。高知城下において吉田東洋らにより藩の取り調べを受けた。その際に中浜と同居した河田小龍は万次郎の話を記録し、後に『漂巽紀略』を記した。約2か月後、帰郷が許され、帰国から約1年半後の嘉永5年(1852年)、漂流から11年目にして故郷に帰ることができた。

帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校「教授館」の教授に任命された。この際、後藤象二郎、岩崎弥太郎などを教えている。
嘉永6年(1853年)7月8日ペリーが江戸に来航し、7月17日に江戸を後にしたが、来春の黒船来航への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから 7月25日、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き(8月30日着)、直参の旗本の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は江川英龍の配下となり、江川は長崎で没収された万次郎の持ち物を返還させた。勘定奉行川路聖謨からアメリカの情報を聞かれ、糾問書にまとめられている。
安政元年(1854年)、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。
1856年軍艦教授所教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の翻訳、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、大鳥圭介、箕作麟祥などが万次郎から英語を学んでいる。
藩校「教授館」の教授に任命されるが、役職を離れた。
理由の1つには、中浜がアメリカ人と交友することをいぶかしがる者が多かったことも挙げられる。また当時、英語をまともに話せるのは中浜万次郎1人だったため、マシュー・ペリーとの交渉の通訳に適任とされたが、(オランダ語を介しての)通訳の立場を失うことを恐れた老中がスパイ疑惑を持ち出したため、結局ペリーの通訳[* 2]の役目から下ろされてしまったが、実際には日米和親条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし尽力した。

ここで、1858年、 島津斉彬の偽装死・極秘渡航、。
1860年咸臨丸。勝海舟。万次郎は通訳。中津の福沢諭吉も乗船。
 このあと、 福沢の香港・イギリス行
 長州ファイブのエジプト・イギリス行

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この記事を書いた人

新井信介

1957年長野県中野市生まれ。東京外国語大学(中国語専攻)から住友商事を経て独立。中国の改革開放に立ち会い、独立後は西欧世界にもネットワークを構築。地球史の視野で、国家・宗教・マネーの意味と構造を探り、個人の可能性(想像性・創造性)と、普遍的文化価値を探求している。そのために、『皆神塾』を主宰し、会員制の『瓊音(ヌナト)倶楽部』も立ち上げて、研鑽を深めています。